「100冊」と「1冊」と

 「100冊読んだ自慢より、1冊しか読んでなくても、その作品について魅力的に語れる人のほうが素晴らしい」という趣旨の投稿をネットなどで目にする機会が多い。ネット閲覧は自分が関心あるジャンルに引っかかってくるから、映画やサッカーでも同類の書き込みなどを見ることがある。
 あくまで例え話であり、仮定であろう。そして、なるほど、そうかもなあ、そうだろうなあとも思う。楽しみ方や理解は人それぞれ。他人がどうこういうことではない。
 それでも、この類いの言葉を目にする度にどうしようもなく違和感を覚えてしまうのは、自分がどちらかと言えば「100冊読んだ」側、あるいはそちらを志向しているから、だ。学生時代を中心に、若い頃は年数百冊読み、映画も100本超見た年も数年はある。友人らに「あれ読んでないの、観てないの」と言われれば競争心のようなものを抱いて読み漁り、鑑賞した。作品解説などで、影響を与えた他作が紹介されれば、それも読み、鑑賞するようにした。異常なまでの多読、博覧強記の先輩を憧れとしていた(いる)し、友人には「あいつより読もう」という気持ちがあった。
 もちろん、本や映画そのものが好きだからやっていたし、やれていたし、楽しかったのだが「とにかく読みまくって、映画を観まくれば、ひとかどの人間になれるんじゃないか」という青臭い願望があったのは間違いない。今でも「年何百冊読んだ、年何百本観た」という人には、反射的に敬意を持つところがある。やはり「100冊読んだ」志向の人間だろう。
 そういった時期を経た上で「100冊自慢より1冊」には頷くところは多い。100冊だろうが1冊だろうが、受ける感動や印象に優劣などない。自分は読書好きだから超多読者に敬意は払うが、そうでない人にとっては関係のない話。冊数をこなしたから人格が磨かれるわけでもなく、人として優れているわけでもなんでもない。偉そうに蘊蓄をたれるよりは、好きな1冊を愛情込めて語るありようの方が魅力的なのは確かである。

 だが、それでもなお消えない違和感は「1冊だけでその作品の魅力が語り尽くされる、知り尽くされるものなのだろうか」という点にある。同じテーマを扱った他作品と比較したり、源流をなす作品をも知ることで、その作品の成り立ちなり特性がより浮き彫りになり、魅力が増したり、あるいは減じたりすることは間違いなくある。「そんなことを知らなくても楽しめる」のも間違いないし、それはそれでよいのだが、私の感覚では「他作を知る」課程を経た者に対して「自分の方が分かっている、楽しめている」とは胸を張っていえない。
 天才的な感性を有する人ならばともかく、多くの場合、魅力的に語れる人は、たいてい多く読んでいるものだ。上述の理由で「魅力的に語る」には、やはり一定の鑑識眼が要りようだし、それはある程度の「量」がないと磨かれない。私は何千冊読んでも鑑識眼、審美眼らしきものはいっこうに磨かれないが、それでも一定の軸のようなものは形作られている(これに対する懐疑がないとそれも危険だが)。どんなジャンルでも、ある程度当てはまることだと思う。
 
 1冊だろうが楽しめばいいし、大いに語ればいい。語ってほしい。ただ「自分の感覚を絶対視」することで、視野狭窄になる危険性と隣り合わせであるのは事実である。感性重視で「楽しければいい」ことに異議はないが、一定の知識なり、積み上げを軽視することはまた別の話だ。感性の鋭い人はともかく、私は愚鈍な頭脳と感性を嘆きつつ、懐疑のまなざしを向けつつ、もちろん楽しく読むながら「100冊志向」も大事にしていきたい。
 
 

  
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蹴球四十雀

Author:蹴球四十雀
滋賀のサッカーJFLチーム「MIOびわこ滋賀」を心の底から応援しつつ、たまにフットサルで息を切らす。一方、書斎での濫読(純文ラノベ歴史ノンフィクション)や琵琶湖周辺の野山歩きもこたえられません!

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