極私的読書論

  「読書は必要なのか?」先日、新聞の投稿欄に若者の声が掲載され、ほかの読者からの反響も交えて、ちょっとした盛り上がりになった。「読書の必要性」あるいは「メリット」については割と定期的に出てくる話題だが、ネットがほぼ普及しつくしたかに思える近年だからこそ、意義のある問いかけだったといえる。中学生のころから趣味を聞かれれば「読書」と応じ、読んだ本を処分できず、本を携帯せずに出歩けるのは近所のコンビニまで(MIOの応援に行くときも必ず荷物にしのばせている。長期旅行だと5冊はないと不安)、という生活を送ってきた人間として、考えさせられるものがあったので、自分なりの見解をまとめておきたい。

  迂遠であるが「読書はなぜ必要?」という問いを考えるには、まず「なぜ読書をするのか=読書の目的」を明確にするところから始めたい。

  読書とは、あたりまえだが、書かれた文字、文章を読むことだ。ふつうは本を思い浮かべるが、書類だろうが論文だろうが、教科書だろうが家電の取扱説明書だろうが行為としては同じことだが、一般的に書店に並んでいる本について問われているのだろうから、その前提で考えることにする。つまり「読書はなぜ必要=本を読むことはなぜ必要」ということだ。

  本を読む、とは「何かを行うための情報収集行為」といえる。「何か」とは、仕事や学業に必要な知識を得ることだったり、家電製品を動かすことだったり、料理の作り方を知るためだったり、なんでもいい。
 しかしこれが「行うため」の段階になると、大きく2つの方向に分かれるように思う。
 一つは得た情報を「実用的に役立てる」というベクトルだ。仕事でも学業でも料理づくりでも、家電操作でも、幅広い分野がこれに該当しよう。
 二つ目は「楽しむため」というベクトルになる。趣味、娯楽としての読書だ。冒険物語に胸躍らせる、謎解きに頭を働かす、恋愛小説に心ときめかせる、私小説に人生を思う…といろいろあるが、要は読み手の楽しみのためにする読書だ。

 「必要なのか」を問う場合には、この2つのベクトルでそれぞれ「本が必要とされているのか」を当てはめるとわかりやすくなると考える。
 
  まず「実用的に役立てる」ベクトルのケースを考えたい。現在日本では年間相当な数の新刊が出ていて、仕事で必要な情報、勉強に必要な知識 、料理をおいしく作る手順、ペットの飼い方など、たいていの分野で本にまとめられている。これを読めばたいてい必要な情報は得られるだろうから、「その分野について知りたければ本を読むことは必要」ということになる。しかし、現代ではこの手の情報はネットでも得ることができ、特に本を買う必要がないことが増えている。スマホを開いて検索するだけ、という行為と、本の中身やタイトルを調べて購入して読む行為とでは、情報へのアクセスの手軽さがまるで違ってくることもあり「必要性」はネット以前と比べると下がっている。
 ただ、ネットが普及したといっても「情報の網羅性・体系性」ではいまのところ、本のほうに分があるだろう。ネットもまとめ記事などがあるとはいえ、まだまだ断片的な部分があるし限定された知識にとどまっている場合も多い。本が完璧、ともいえないが、例えば良質な新書などでは、その分野の説明に加えて、歴史や今後の課題や展望についても、専門家が参考文献などを示してまとめていることが多いので「役立ち度」はかなりのものだ。当然ネットも「網羅性・体系性」の整備が進むので、今後も本が優位性を保てるか不透明ではある。
 

  次に「楽しむため」のケースだ。本を読むことで見知らぬ世界の物語に浸る、悲劇に涙し、笑話に腹を抱える、などなど、実に多様な楽しみ方ができるものだ。哲学書を読んで人生や存在に考えを巡らすのも楽しみといえば楽しみといえる。だが、これも本固有のものとは言い切れない。演劇、音楽、映画、絵画、アニメ、ドラマ、舞踊などほかの表現ジャンルでもにもある要素だ。本も「一つのジャンル」に過ぎないともいえる。
  ジャンルごとに特性はあるものだが、本の特性をあげるとしてぱっと思いつくとすれば「文字表現自体の味わい」「文字という記録特長による歴史性を有している」ことだろうか。バイオリンの絃の強弱、役者のしぐさ、絵筆の運び方、というように、本には文字の連ね方、文章力による味わい、想像力の広がり方というものは確かに存在し、魅力の一つだ。また文字という記録性があるため、古いものでも同じように味わえる、、歴史性を持ちやすい、というのも特性であろう。これがために、演劇や映画など多ジャンルの元ネタは古い文学作品であったりすることも多く、相互作用はあろうが、多ジャンルにも多大な影響を与えているものの「元、あるいはそれに近いもの」を味わうことができる。

結論として「情報を得て何かする(楽しむ、を含む)」ために読書が必要であるか、と問われれば「本を読むことが目的達成に不可欠な場合は必要だが、読まなくても達成できる場合も往々にしてある」ということになる。本にしかない情報、本にしかできない表現なりを求めるのであれば読書は必要だし、そうでなければ必要ではない。至ってシンプルな結論である。


 と、論点をすっきりさせたいから細かく書いたが、今回出てきた「読書が必要か」論は、若者が読書の必要性を説く大人に投げかけた疑問で、一昔前の教養論への懐疑、つまり荒っぽくいってしまえば「読書しないと立派な人間になれないのか」ということだろう。
 「読書で知識教養が身に付き、考え方、人格が陶冶される」とは、一昔前では当たり前の概念だったし、私も周囲にそういわれて育ったし、そう思っていた。この概念は「役立てる」ベクトルになると思うのだが、これは上述したように、知識情報の獲得手段が本にとどまらなくなっている現在、説得力を欠きつつある。上述した本の特性から体系を理解して、論理的な考察を行うために、まだまだ読書は有用であるとは思うが、絶対不可欠の手段とは言い切れまい。
 また、本好きからの反響投稿でよくあるのは「違う世界を体験できる」「いろいろな考え方がわかる(身につく)」というものだ。本好きとしてそういう側面も実感するが、読書だけで得られるものなのか。やはり疑似体験でしかない部分もあるし、考え方の違う他人と実際に触れ合うことのほうが多様性への理解がより深まるのではないか。自分も本好きだから、本の優位性を押し出したい気持ちは当然あるが、この手のメリットを強調するのは結局「読書家の自分の優位性」をアピールすることが目的なのではないか、と思わないでもない。
  
 自分自身にひきつけていえば、きわめて平凡(以下かも)な学習能力しかない人間であるが、読書を趣味としてきたことで、例えば大学受験の国語や歴史分野はとくに勉強しなくてもそれなりの点数が取れたメリットはあったし、研究者の論文も(分野にもよるが)それなりに読めるようになり、仕事にも役立っていると感じる面は多々ある。映画も好きだが、どっぷりと活字を追う時間がやはり至福の極みであり「読書してきてよかった」とつくづく思う。
 好きで読んできた本だが「読書によって教養が付く、賢くなる、人間的に成長するのでは」といった、欲や見栄があった(今もやはりあるな)のは否定できない。「たくさん読めばそれだけ世界が、人生がわかる」「本をたくさん読んでる自分は偉いのでは」と、生意気にも思っていたころもある。が、結局こういうとりとめのない文章しか書けないし、この程度のことしか書けていない。

 そういった思いもふくめて、読書を通じていま漫然と思うのは「世界は一生かけてもほとんど理解できないくらい、とてつもなく広くて深くて、自分はどうしようもなく小さくて、だからそこで生きていくのは面白いし、生きていきたい」というようなものだろうか。高校生のころ、見栄はって我慢しながらドストエフスキーを読んでいて、担任の先生に「お前そんなもんわかるのか、退屈なんじゃないか」と図星をさされてうろたえていたら、隣にいた国語の先生が「それがいいんだよなあ、わかんねえなあ、退屈だなあ、と思いながらも読むってのがいいんだよなあ」と言ってくれた。「それでいいんだ。それも読書なんだ」と、ハッとなった。「わからないことも、退屈なこともこの世界や人生の一部だし、悪いことでもない」。そう思うようになり、以来「わからないこと」もある意味で楽しみになっている。
 
  新聞に投稿した若い人は、周りの大人に「読書しなさい」的なことを言われて反発するような面もあったのだろうが、根底には「読書を通じて何が得られるのだろう、自分の世界や人生がどうなるのだろう」という真摯な心情があるからこその問いかけだろう。 「読書はなぜ必要なのか」を「真剣に」問う人は、≒「自分はどうなりたいのか、ありたいのか」ということを考えているのかもしれない。だとすれば、その問いを深めて考えるためには、まず本を読んでみるといいかもしれないですよ、という当たり前の結論に落ち着くのであった。
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蹴球四十雀

Author:蹴球四十雀
滋賀のサッカーJFLチーム「MIOびわこ滋賀」を心の底から応援しつつ、たまにフットサルで息を切らす。一方、書斎での濫読(純文ラノベ歴史ノンフィクション)や琵琶湖周辺の野山歩きもこたえられません!

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