サッカーを見て書くときに考えること

  サッカー観戦が楽しみになって久しい。MIOであれレッズであれ、代表であれ、気になった試合は当然、戦評や分析が気になる。自分なりに感想をまとめて楽しむだけでも十分なのだが、「他の人はどう見たのか、どう分析しているのか」を知って考えることで楽しみがさらに増すのは、読書でもそうだし、どの趣味分野にもいえることだろう。
  必然的に知人と感想を語り合う以外に、新聞やネットの戦評や評論に目を通すことになる。専門家によるものもあれば、サポーターさんや経験者の人のものを読むこともある。専門家や新聞の担当記者によるものでも首をひねることはあるし、一般の方のものでも、自分が全く気付いていなかった点がわかったり、納得させられることも多い。
  経験としては小学生の時と、草サッカー程度という、サッカーをあまり分かっていない自分がみるポイントは、まずは肩入れしているチームのキックオフ時のおおまかな布陣。時間や相手の出方によって変化していくものではあるが、各選手のスタートポジションとして着目している。次に「試合の進め方、狙い」を観ている。これも相手あってのことだが、守備は前から行くのか、構えるのか、どういうルート、方法で攻めようとしているのかを見ている。 肩入れチーム優先の視点なのでもう一方のチームについてはそのあたりがおろそかになり、何度か同じパターンで攻められたり、守られたりすることでようやく布陣や狙いに気づく、といったところだ。
  試合が進んでいくにつれて、見る点は個人の動きも含まれていく。球際での競り合い、パスを回されたとき、味方がボールを保持したときの位置取り、動き出しなど多岐にわたるので、すべての選手の動きを見れるはずもなく、敵味方問わずなんとなく目についてくる選手に注目することになる。全体でいえばチームとしての動きと個人のプレーをミックスさせて観戦することになるのだが、ここでも肩入れチーム優先の視野になってしまうので、相手方については決められたり守られて、やっと「ここを狙っていたらしいな」と気が付くのがせいぜいだ。

 この程度の理解なので、このブログに書いているのは所詮感想であり、あくまで自分が受けた印象だ。「こういう動きをすればよかったんじゃないか」「あの選手をこの位置で使えば」「あの選手を投入すれば」など、いろいろと思うこともある。その中には当たっていることも、ひょっとしたらあるかもしれない。専門家の方や経験者の方が書いているものについては、かなり当たっているのだろうと思う。

 サッカーでも小説でもつまるところ「見た人、読んだ人の分析、受け取り方がすべて」というのは、大まかにいって間違っていない。単純に面白かった、面白くなかった、でいいと思うしチームも選手も作家も、原則として感想や評価は観客や読者にゆだねるべきだろう。「お金を払っているから云々」ではなく、人に見せる、見られるということはそういうことだ。
 
 ただし、それは評価する側が雑誌の記事やこうしてブログに記載する際にも付きまとってくる。「その評価、感想は妥当であるか?」という問いがなされるのは必然である。その場合には、大げさに言えば評者の眼力や水準が問われることになる。私が好きなフィッツジェラルドの小説の評価、感想の場合でも、例えば1920~30年代のアメリカの文化経済状況を知った上でのものと、そうでない場合には、当たり前だが深みに違いが出る。もちろん当時のアメリカの文化経済を知らなくでも読めるし、面白い。それでいいのだが、そこを踏まえると評価の精度はより増すし、人物の心情にさらに想像を巡らせることができて、より面白く味わえるのは間違いない。
 
 作品が残り続けていく小説と違い、基本的には同時代的であるサッカーの場合なら、まずは基本的な戦略、戦術(すべて戦術でひっくくられているケースが多々あるが)と、ある程度の経験だろうか。布陣ごとの特性を知っているほうがより的確な評価はできるだろうし、プレー経験があるほうが感想の説得力があるのは当たり前だろう。
 また、サッカー評論、感想には「ああすればよかったのでは」という采配論が不可分でもある。このあたりは、小説にはあまり見られない(もちろん指摘がなされるケースがあるのは承知の上だ)。
試合の感想を言い合ったり、評論する際の醍醐味の一つでもある。この場合も知識や経験があったほうが説得力が高いのだが、もう一つ、現場の事情をどこまで把握しているか、も大事になってくる。「なぜあの選手を使わない」といっても、故障などを抱えているのかもしれないし、試合や先々を見据えて優先して使いたい選手や相手との相性を考えての起用かもしれない。布陣や交代采配も同様だろう。
 「なぜサイドを攻めないのか」という戦略、戦術の類の疑問についても同様で、ここぞ、というところでサイドを突くためにあえて中央攻撃を「撒き餌」にしているケースだってあるだろう。ラモス瑠偉さんだったとおもうが、「勝負どころのために、あえて捨てパスを出していることがある」と いう専門誌のインタビューを読んだことがあるし、トップレベルのゲームでは、相手や味方選手の気性なども計算に入れた、相当細かい駆け引きがあるとも聞く。
 こういった意図をくみ取るのは試合後に相手方もふくめて選手や監督に取材しないと無理だろうし、取材しても煙幕を張られることだってあるだろう。ピッチ上で起きた現象の分析を高精度に評価することと、望ましい現象を生み出すために「必要だった」手段を提示することは、また別の能力や情報が不可欠だし、当たっていたかどうか証明のしようもない作業だ。

 小説もサッカーも感想、評論、批評は楽しく、欠かせない魅力であり、それ自体がジャンルを豊かにしている活動であり、ジャンル自体が改善、向上される部分があるのも事実だろう。ただ、それらはあくまで成立した作品、戦い終えられた試合それ自体を超えるものではない。サッカーでも代表戦やJFLなどカテゴリー問わず、一部の専門家やネットの評論で「全能の神」のようにふるまう向きもあるが、空論であるという自覚をもうすこし持ったほうがいいんじゃないかな、と思いつつ自省は欠かせないよな、と考える近頃であった。
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蹴球四十雀

Author:蹴球四十雀
滋賀のサッカーJFLチーム「MIOびわこ滋賀」を心の底から応援しつつ、たまにフットサルで息を切らす。一方、書斎での濫読(純文ラノベ歴史ノンフィクション)や琵琶湖周辺の野山歩きもこたえられません!

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