W杯出場決定

 2-0で6回目のW杯を決めた。

 TV観戦していたが、基本的に前回アウエー対戦と似たような構図だったといえよう。ボールを回す豪州に対し、前から行くところは行き、引くところはしっかり2列のラインを敷いて守る戦術を見事に遂行していた。もちろん相手も豪州なのでピンチはあったが、いずれも偶発的なもので、守備のやり方や組織が破綻していた訳ではない。特にいいな、と感じたのは井手口選手。球際の強さと出足のよさ、粘り強い絡みつきで、長友選手とともに左サイドをよく守り抜いた。乾選手の運動量が落ち、ケーヒル選手が入ってきてからは、左サイドが起点にされていたが耐え抜き、原口選手が投入されると「鉄壁」といってもいいほどになったと感じた。
 右サイドも酒井選手が頑張っていたのに加え、浅野選手の奮闘もたたえたい。初めは右サイドでボールを持っても少し迷い気味だったが、前半の早いうちに一度縦に仕掛けたことで吹っ切れたのか、攻撃では少々のロストがあっても突っ込んでいき、守備でもトラップを狙って襲いかかっていた。一連の動きで豪州の左サイドが明らかに上がれなくなり、右サイドからの攻略を防ぐことに大いに貢献したと思う。

 攻撃では大迫、乾選手とも存分に持ち味を発揮した。大迫選手はさすがの貫禄、豪州クラスのDFでは歯立たないポストぶりで、得点こそないが、貢献度は絶大だった。乾選手も、縦に仕掛けていくドリブルで明らかに嫌がられていた。浅野選手もそうだが、ラインを割っても、縦に強引に仕掛けていくからこそ豪州DFに重圧を与えられたのだろうし、こういう試合では特に重要なプレーだと思う。

 一番瞠目した井手口選手に関しては、Jでは何試合か観たので能力は知っているつもりだったが、この大舞台でこれほどの存在感を放つとは言葉がない。守備はいうまでもないが、攻撃面でも徐々に存在感を出し、後半などはサイドチェンジや浅野選手への絶妙のパスなど攻撃でもゲームを掌握していた。ガンバの遠藤選手が「怪物」と評したそうだが、試合中にまさに「怪物」が目を覚ましていくのを観ているような恐ろしささえ感じた。得点の素晴らしさははいうまでもないが、得点がなかったとしてもその印象は揺らぐものではない。動けて、守備が強くてパスも出せて、点もとれる、しかも21歳でこの大舞台で仕事をやってのける、とんでもない才能だと思うし、中盤の序列の最上位に一気にのし上がるだけの働きだった。

 何だかんだ言われながら、初戦を落としながらも1試合を残しての本大会決定は賞賛されるべき結果だ。しかも内容、メンバーともに変更、底上げしながらなので相当な値打ちものの最終予選だった。相手に合わせてメンバーややり方を柔軟に変えつつ、一定のクオリティーを保つ、という点では代表史上でも相当に画期的な期間だったといえる。
 もちろん、本選になんの保証をもたらすものではないが、少なくとも代表のサッカーの「幅」が大きく広がり、武器になっていきそうなのは間違いない。 
スポンサーサイト

関西リーグ

 アクセスしやすい西京極で関西リーグがあり、かつ時間もあったので出かけてみた。2部のラランジャVSディアブロッサ目当てで足を運んだが、着いたら1部のアルテリーヴォVSレイジェンドの最終盤で、2試合開催だったと知った。

 レイジェンドの試合に関しては、それまでのスコアや暑さなどからか、アルテが一方的に押し込んでいて、レイジェンドは完全に足が止まっていた印象を受けた。ボールを奪っても、吉田選手以外に前へ出る推進力がないように見えた。まあ2年前の天皇杯で感じたが、アルテは普通に強いので仕方なし、だろう。2部降格もあり得る状況のようだが、まだ試合は残っているのでどうなることか。

 ラランジャのゲームは、ほぼ2バックでサイドに人を張らせ、ショートパスで攻め込むラランジャが、終始主導権を握っていた。ディアブロッサは見事なミドル2本でうち1本が決まったが、裏を返せばそれくらいしか得点機はなかった印象だ。ラランジャは、サイドと中のパスの出し入れのリズムが素晴らしく、2-1のスコアだったが5点とってもおかしくない出来映えだったと感じた。

 地域リーグ観戦は久しぶりなので、応援なども気になったが、アルテは結構な数の声出し応援団で、レイジェンドはほぼなし。ラランジャ、ディアはそれぞれ1、2人、というところか。と書いたが、別に声出しサポーターの人数の多寡が大事なのではなく、それぞれに懸命に応援されておられて「いい感じ」だった。
 またラランジャはスクールのお子さん、保護者が多数来場していた。試合直前の緊迫したアップやHTの出入り時に、最前列から子供たちが「コーチ今日でえへんの?」「えっコーチってキーパーちゃうかったん?」と無邪気に声をかけ、選手も「おれキーパーちゃうわ」などと応えている光景はなかなか新鮮だった。
 Jはもちろん、JFLでもなかなかこうはいかないだろうし、できる雰囲気ではないだろうが、地域リーグならこれもあり。むしろこういうムードこそ「地域密着」には大切なのかな、と感じた。いつも教えてもらっているコーチのお兄ちゃんのプレーに熱狂して、声援を送って、という姿は応援の原点ともいえる。声出しがどう、サポーターの人数がどう、というよりも大事なものを感じたし、こういう光景が広がっていけば、サッカーは本当に地域に、日本に根付くんじゃないかと思う。

筋トレ論花盛り

 近ごろネットで流行るもの-。自分の関心事に引っかかっているだけだろうが「サッカー筋トレ論」がその一つ。「サッカーにももっと筋トレが必要」「今の筋トレのやり方(体幹中心)は間違い」「サッカーの筋トレは遅れている」が主な論調だ。天皇杯でのいわきFC、筑波大などの躍進も記事の論拠や読者の賛同を強くしているようだ。

 私はもちろん、筋トレ理論にそれほど詳しくない。学生時代に部活で顧問教師の指導のもとにやっていたが、体質なのか競技特性なのかやり方がいまいちだったのか、それほど筋肥大はしなかった。しかし筋力自体はそれなりに付いて動きの力強さが増したのは体感でき、やってよかったと思っている。サッカーに必要な筋肉なら付けた方がいいに決まっているし、最新のよい理論があるなら導入が進んでほしい。 
 ただ、先日「サッカーしか」で書いたのと同様、論じられ方が気になってしょうがない。筆者や賛同者が理論の優位性を示そうとするあまり「現場へのダメ出し」に終始するように見受けられるからだ。そもそも記事がどのレベル(Jクラブなのかトップレベルユースなのか、普通の中高部活なのか)を多念頭に置いているか明確にしていないのでなんとも言い様がないが「サッカーの指導者にすべてを求める」姿勢は一見正しいようで、その実かなり無理がある。サッカーの技術、戦術指導(こちらも最新でないと「遅れてる」といわれちゃう)と「最新の筋トレ理論」を兼ね備えている人がどれだけいるか、一人で兼ね備えるのがどれほど大変なことか。指導者業でしっかり食べていける人にならともかく、中高の部活レベルの先生に求めちゃいますか?理論持っていないからといってダメ出ししちゃいますか?手弁当に近い状態でやっている指導者にダメ出しして、やる気をそぐことが必要なのだろうか?
 
 食べていけるトップレベルの指導者だって(だからこそ)分業化している。だからフィジカルコーチがいるわけだし、存在意義もある。ダメ出ししている「筋トレ理論」の筆者がサッカーなど競技ごとの最新戦術や技術の指導法を持っているだろうか。持っていないからと言ってダメ出しされるいわれはなく、逆もまた然りだ。フィジカルはどのスポーツをやるにしても必要な基礎部分なのでどの分野にも口を出しやすいが、その競技そのものを指導できるわけではない。また必要なのは「サッカーの実力を伸ばすこと」であって、そのために筋力は必要不可欠だが充分条件ではない。最新理論の筋トレを「させること」ですべて解決できるかのような賛同には危惧も覚える。

 フィジカルが足らないのは事実としても、本当に改善したいのならば「こんな選手にはこんなメニューが効果的」「本格的なジムがなくてもこういうメニューもあります」と提示したり、自ら指導にあたって効果を実証していけばいい話だ。「遅れている」とくさして自らの優位性を誇示したところで何も変わりはしないし、単なる自己満足だろう。
 この手の話は、よくラグビーが引き合いに出されて食傷気味でもある。ラグビーのフィジカルとタフネスは、もちろん見習うべきところが多いし見習ってほしい。ただ競技特性もある。ラグビーにはラグビーの、サッカーにはサッカーのフィジカルがあるのもまた事実だ。一昨年のラグビーW杯決勝では最後にNZがターンオーバーしてそのままトライに持ち込むシーンがあった。トライする側も追いかける側も迫力のランだったのは間違いないが、その選手のポジションもあるにせよ、サッカーのW杯レベルに比べると明らかに「遅いな」と感じた。これはラグビーを貶めているわけでなく、競技特性だ。あの中に、たとえばスピードあるクリロナがいても何ができるのか、という話だし、逆もまた同じである。他競技のよいところは積極的に取り入れるべきだが、貶めるための材料に使う必要はない。 

「サッカー『しか』」への違和感

  どうしても気になったので考えをまとめておきたい。

 何日か前、サッカーしかやらない子はどうなるのか?との記事に触れ、話題になっていることを知った。「小さい頃はいろんなスポーツに触れたほうがいい」という結論には賛成だ。野球でもバスケでもテニスでもいろいろやったほうが、その子がいずれメーンにしたい競技に生きてくると思う。
 
 ただ記事自体にはいくつか違和感を覚えた。誤認があるとおもわれる野球とサッカーの体格の比較、極端な事例の一般化(サッカーしかやってない子は腕立てができない→サッカーしかやってなくてもできる子はできるし、個人の体格、発育差の問題もある、よその国の子はどうなの?などなど)、そもそも小学校の体育授業がないかのような前提(年間通したら結構な時間が確保されているし、水泳や跳び箱、鉄棒などいろいろやるはず)などがざっとしたところだが、最も強い違和感があったのは「サッカースクールではフィジカルや基礎運動をしない」という旨を核とした部分だ。記事のタイトルとつながってきて、筆者の問題提起の具体例としたい部分とおもわれる。
 
 これは一見その通りだと感じる人は多いだろうし、私もうなずくところでもある。スクールなりなんなりで、基礎運動やフィジカル部分をうまく取り入れるといいな(そもそもやっているところはやっているだろうが)、と思う。ではなにが気になるかというと、「ではどうしたらいいか」という筆者の提起がないに等しいため、「サッカー教室の運動指導がなっていない」という印象で終わってしまっているところだ。これが筆者の狙いなのかどうかは不明だが、「サッカー教室やその指導者」をあげつらって終わっていいのだろうか。

 いろんなスポーツを、という趣旨には賛同するし、サッカー教室で取り入れられれば理想的とは思う(繰り返すがやっているところはもうやっている)が、そもそも「サッカー教室」が全部しょい込まなければならない話なのだろうか。当たり前だけれど、「サッカースクール、クラブ」はたいていの場合、サッカー指導者がやっているし、サッカーをやるために通っている場所だ。筆者に倣って極端な例えを出せば、「英語教室に算数の計算能力アップの指導を求める」ようなものだ。勉強の場合でも、どの科目でも基礎的な計算力や国語力は不可欠だが、「英語教室に、英会話教師にそれを求めちゃう?」ということだ。もちろんできれば理想なのだが、できないからといって英語教室に責任転嫁する親も子もいないだろう。サッカースクールも同じことで、よりできれば理想だけれど、できないからと言って必要以上にあげつらわれるのはどうかと感じる。他競技の指導者も抱えたり、サッカー指導者に研修させるとなると、確実に負担は増える。
 もう一つ言えば、これはスクールと親なり子なりの選択で、おすすめはしないが、特性を打ち出すために「サッカー特化」をあえて選択することがあってもおかしくはない。「僕はサッカーだけ、がやりたいんだ」という子がいてもいいし、「サッカーだけを教えたいんだ」というスクールがあっても、それはその人たちの選択である。むろん、「ほかのスポーツもしたほうがいいよ」というコンセンサスは広まってほしいが、日本は筆者がベースにしているという共産主義国家下でのスポーツ理論に基づいた社会ではないのだから、それもありといえばあり、だ。スポーツは楽しみ、自発的なもの、とするなら「複数競技による効率的な育成」に背を向けるのも、極論すれば一つの帰結ではある。

 と違和感を書き連ねてきたが、「ほかのスポーツもしたほうが」という筆者の趣旨には、何度も繰り返すが私も賛同する。いくつかの違和感を除けば、問題提起としてはよいと思う。ではどうやって実現していくのか、だ。サッカーに限らず、野球なり水泳なり各クラブが自発的に別競技の体験を取り入れる、というのは理想的だが、ほっといてそうなるかというと心もとない。筆者もまさかネット記事で提唱してすべて変わるとは思っていまい。
 保護者や大人がそういうコンセンサスをもって、複数スポーツに通わせるなりなんなりする、というのも「そうする家庭はするし、しない家庭はしない」で終わるだろう。そもそも外遊びが難しくなっている地域が増えているご時世、単一種競技だろうが体を動かしているだけマシともいえる。
 個人的には学校体育の充実(すでに外部指導者導入などの動きもあるが)が、予算的にも網羅的にも一番いいんではないかと感じるが、これも運動が得意なこと興味もない子(運動に興味がないのは決して悪いことではない)も一緒のステージですることになるので、物足りなさはでてくるだろう。
 
 当然私も具体策を出せているわけではないのだが、それにしても「日本の現場の指導者は未熟で間違った知識と理論でやっているらしい」と、単にあげつらうような姿勢だけは絶対にとるまい、と思う。
 

サッカーを見て書くときに考えること

  サッカー観戦が楽しみになって久しい。MIOであれレッズであれ、代表であれ、気になった試合は当然、戦評や分析が気になる。自分なりに感想をまとめて楽しむだけでも十分なのだが、「他の人はどう見たのか、どう分析しているのか」を知って考えることで楽しみがさらに増すのは、読書でもそうだし、どの趣味分野にもいえることだろう。
  必然的に知人と感想を語り合う以外に、新聞やネットの戦評や評論に目を通すことになる。専門家によるものもあれば、サポーターさんや経験者の人のものを読むこともある。専門家や新聞の担当記者によるものでも首をひねることはあるし、一般の方のものでも、自分が全く気付いていなかった点がわかったり、納得させられることも多い。
  経験としては小学生の時と、草サッカー程度という、サッカーをあまり分かっていない自分がみるポイントは、まずは肩入れしているチームのキックオフ時のおおまかな布陣。時間や相手の出方によって変化していくものではあるが、各選手のスタートポジションとして着目している。次に「試合の進め方、狙い」を観ている。これも相手あってのことだが、守備は前から行くのか、構えるのか、どういうルート、方法で攻めようとしているのかを見ている。 肩入れチーム優先の視点なのでもう一方のチームについてはそのあたりがおろそかになり、何度か同じパターンで攻められたり、守られたりすることでようやく布陣や狙いに気づく、といったところだ。
  試合が進んでいくにつれて、見る点は個人の動きも含まれていく。球際での競り合い、パスを回されたとき、味方がボールを保持したときの位置取り、動き出しなど多岐にわたるので、すべての選手の動きを見れるはずもなく、敵味方問わずなんとなく目についてくる選手に注目することになる。全体でいえばチームとしての動きと個人のプレーをミックスさせて観戦することになるのだが、ここでも肩入れチーム優先の視野になってしまうので、相手方については決められたり守られて、やっと「ここを狙っていたらしいな」と気が付くのがせいぜいだ。

 この程度の理解なので、このブログに書いているのは所詮感想であり、あくまで自分が受けた印象だ。「こういう動きをすればよかったんじゃないか」「あの選手をこの位置で使えば」「あの選手を投入すれば」など、いろいろと思うこともある。その中には当たっていることも、ひょっとしたらあるかもしれない。専門家の方や経験者の方が書いているものについては、かなり当たっているのだろうと思う。

 サッカーでも小説でもつまるところ「見た人、読んだ人の分析、受け取り方がすべて」というのは、大まかにいって間違っていない。単純に面白かった、面白くなかった、でいいと思うしチームも選手も作家も、原則として感想や評価は観客や読者にゆだねるべきだろう。「お金を払っているから云々」ではなく、人に見せる、見られるということはそういうことだ。
 
 ただし、それは評価する側が雑誌の記事やこうしてブログに記載する際にも付きまとってくる。「その評価、感想は妥当であるか?」という問いがなされるのは必然である。その場合には、大げさに言えば評者の眼力や水準が問われることになる。私が好きなフィッツジェラルドの小説の評価、感想の場合でも、例えば1920~30年代のアメリカの文化経済状況を知った上でのものと、そうでない場合には、当たり前だが深みに違いが出る。もちろん当時のアメリカの文化経済を知らなくでも読めるし、面白い。それでいいのだが、そこを踏まえると評価の精度はより増すし、人物の心情にさらに想像を巡らせることができて、より面白く味わえるのは間違いない。
 
 作品が残り続けていく小説と違い、基本的には同時代的であるサッカーの場合なら、まずは基本的な戦略、戦術(すべて戦術でひっくくられているケースが多々あるが)と、ある程度の経験だろうか。布陣ごとの特性を知っているほうがより的確な評価はできるだろうし、プレー経験があるほうが感想の説得力があるのは当たり前だろう。
 また、サッカー評論、感想には「ああすればよかったのでは」という采配論が不可分でもある。このあたりは、小説にはあまり見られない(もちろん指摘がなされるケースがあるのは承知の上だ)。
試合の感想を言い合ったり、評論する際の醍醐味の一つでもある。この場合も知識や経験があったほうが説得力が高いのだが、もう一つ、現場の事情をどこまで把握しているか、も大事になってくる。「なぜあの選手を使わない」といっても、故障などを抱えているのかもしれないし、試合や先々を見据えて優先して使いたい選手や相手との相性を考えての起用かもしれない。布陣や交代采配も同様だろう。
 「なぜサイドを攻めないのか」という戦略、戦術の類の疑問についても同様で、ここぞ、というところでサイドを突くためにあえて中央攻撃を「撒き餌」にしているケースだってあるだろう。ラモス瑠偉さんだったとおもうが、「勝負どころのために、あえて捨てパスを出していることがある」と いう専門誌のインタビューを読んだことがあるし、トップレベルのゲームでは、相手や味方選手の気性なども計算に入れた、相当細かい駆け引きがあるとも聞く。
 こういった意図をくみ取るのは試合後に相手方もふくめて選手や監督に取材しないと無理だろうし、取材しても煙幕を張られることだってあるだろう。ピッチ上で起きた現象の分析を高精度に評価することと、望ましい現象を生み出すために「必要だった」手段を提示することは、また別の能力や情報が不可欠だし、当たっていたかどうか証明のしようもない作業だ。

 小説もサッカーも感想、評論、批評は楽しく、欠かせない魅力であり、それ自体がジャンルを豊かにしている活動であり、ジャンル自体が改善、向上される部分があるのも事実だろう。ただ、それらはあくまで成立した作品、戦い終えられた試合それ自体を超えるものではない。サッカーでも代表戦やJFLなどカテゴリー問わず、一部の専門家やネットの評論で「全能の神」のようにふるまう向きもあるが、空論であるという自覚をもうすこし持ったほうがいいんじゃないかな、と思いつつ自省は欠かせないよな、と考える近頃であった。
プロフィール

蹴球四十雀

Author:蹴球四十雀
滋賀のサッカーJFLチーム「MIOびわこ滋賀」を心の底から応援しつつ、たまにフットサルで息を切らす。一方、書斎での濫読(純文ラノベ歴史ノンフィクション)や琵琶湖周辺の野山歩きもこたえられません!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード