「サッカー『しか』」への違和感

  どうしても気になったので考えをまとめておきたい。

 何日か前、サッカーしかやらない子はどうなるのか?との記事に触れ、話題になっていることを知った。「小さい頃はいろんなスポーツに触れたほうがいい」という結論には賛成だ。野球でもバスケでもテニスでもいろいろやったほうが、その子がいずれメーンにしたい競技に生きてくると思う。
 
 ただ記事自体にはいくつか違和感を覚えた。誤認があるとおもわれる野球とサッカーの体格の比較、極端な事例の一般化(サッカーしかやってない子は腕立てができない→サッカーしかやってなくてもできる子はできるし、個人の体格、発育差の問題もある、よその国の子はどうなの?などなど)、そもそも小学校の体育授業がないかのような前提(年間通したら結構な時間が確保されているし、水泳や跳び箱、鉄棒などいろいろやるはず)などがざっとしたところだが、最も強い違和感があったのは「サッカースクールではフィジカルや基礎運動をしない」という旨を核とした部分だ。記事のタイトルとつながってきて、筆者の問題提起の具体例としたい部分とおもわれる。
 
 これは一見その通りだと感じる人は多いだろうし、私もうなずくところでもある。スクールなりなんなりで、基礎運動やフィジカル部分をうまく取り入れるといいな(そもそもやっているところはやっているだろうが)、と思う。ではなにが気になるかというと、「ではどうしたらいいか」という筆者の提起がないに等しいため、「サッカー教室の運動指導がなっていない」という印象で終わってしまっているところだ。これが筆者の狙いなのかどうかは不明だが、「サッカー教室やその指導者」をあげつらって終わっていいのだろうか。

 いろんなスポーツを、という趣旨には賛同するし、サッカー教室で取り入れられれば理想的とは思う(繰り返すがやっているところはもうやっている)が、そもそも「サッカー教室」が全部しょい込まなければならない話なのだろうか。当たり前だけれど、「サッカースクール、クラブ」はたいていの場合、サッカー指導者がやっているし、サッカーをやるために通っている場所だ。筆者に倣って極端な例えを出せば、「英語教室に算数の計算能力アップの指導を求める」ようなものだ。勉強の場合でも、どの科目でも基礎的な計算力や国語力は不可欠だが、「英語教室に、英会話教師にそれを求めちゃう?」ということだ。もちろんできれば理想なのだが、できないからといって英語教室に責任転嫁する親も子もいないだろう。サッカースクールも同じことで、よりできれば理想だけれど、できないからと言って必要以上にあげつらわれるのはどうかと感じる。他競技の指導者も抱えたり、サッカー指導者に研修させるとなると、確実に負担は増える。
 もう一つ言えば、これはスクールと親なり子なりの選択で、おすすめはしないが、特性を打ち出すために「サッカー特化」をあえて選択することがあってもおかしくはない。「僕はサッカーだけ、がやりたいんだ」という子がいてもいいし、「サッカーだけを教えたいんだ」というスクールがあっても、それはその人たちの選択である。むろん、「ほかのスポーツもしたほうがいいよ」というコンセンサスは広まってほしいが、日本は筆者がベースにしているという共産主義国家下でのスポーツ理論に基づいた社会ではないのだから、それもありといえばあり、だ。スポーツは楽しみ、自発的なもの、とするなら「複数競技による効率的な育成」に背を向けるのも、極論すれば一つの帰結ではある。

 と違和感を書き連ねてきたが、「ほかのスポーツもしたほうが」という筆者の趣旨には、何度も繰り返すが私も賛同する。いくつかの違和感を除けば、問題提起としてはよいと思う。ではどうやって実現していくのか、だ。サッカーに限らず、野球なり水泳なり各クラブが自発的に別競技の体験を取り入れる、というのは理想的だが、ほっといてそうなるかというと心もとない。筆者もまさかネット記事で提唱してすべて変わるとは思っていまい。
 保護者や大人がそういうコンセンサスをもって、複数スポーツに通わせるなりなんなりする、というのも「そうする家庭はするし、しない家庭はしない」で終わるだろう。そもそも外遊びが難しくなっている地域が増えているご時世、単一種競技だろうが体を動かしているだけマシともいえる。
 個人的には学校体育の充実(すでに外部指導者導入などの動きもあるが)が、予算的にも網羅的にも一番いいんではないかと感じるが、これも運動が得意なこと興味もない子(運動に興味がないのは決して悪いことではない)も一緒のステージですることになるので、物足りなさはでてくるだろう。
 
 当然私も具体策を出せているわけではないのだが、それにしても「日本の現場の指導者は未熟で間違った知識と理論でやっているらしい」と、単にあげつらうような姿勢だけは絶対にとるまい、と思う。
 
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サッカーを見て書くときに考えること

  サッカー観戦が楽しみになって久しい。MIOであれレッズであれ、代表であれ、気になった試合は当然、戦評や分析が気になる。自分なりに感想をまとめて楽しむだけでも十分なのだが、「他の人はどう見たのか、どう分析しているのか」を知って考えることで楽しみがさらに増すのは、読書でもそうだし、どの趣味分野にもいえることだろう。
  必然的に知人と感想を語り合う以外に、新聞やネットの戦評や評論に目を通すことになる。専門家によるものもあれば、サポーターさんや経験者の人のものを読むこともある。専門家や新聞の担当記者によるものでも首をひねることはあるし、一般の方のものでも、自分が全く気付いていなかった点がわかったり、納得させられることも多い。
  経験としては小学生の時と、草サッカー程度という、サッカーをあまり分かっていない自分がみるポイントは、まずは肩入れしているチームのキックオフ時のおおまかな布陣。時間や相手の出方によって変化していくものではあるが、各選手のスタートポジションとして着目している。次に「試合の進め方、狙い」を観ている。これも相手あってのことだが、守備は前から行くのか、構えるのか、どういうルート、方法で攻めようとしているのかを見ている。 肩入れチーム優先の視点なのでもう一方のチームについてはそのあたりがおろそかになり、何度か同じパターンで攻められたり、守られたりすることでようやく布陣や狙いに気づく、といったところだ。
  試合が進んでいくにつれて、見る点は個人の動きも含まれていく。球際での競り合い、パスを回されたとき、味方がボールを保持したときの位置取り、動き出しなど多岐にわたるので、すべての選手の動きを見れるはずもなく、敵味方問わずなんとなく目についてくる選手に注目することになる。全体でいえばチームとしての動きと個人のプレーをミックスさせて観戦することになるのだが、ここでも肩入れチーム優先の視野になってしまうので、相手方については決められたり守られて、やっと「ここを狙っていたらしいな」と気が付くのがせいぜいだ。

 この程度の理解なので、このブログに書いているのは所詮感想であり、あくまで自分が受けた印象だ。「こういう動きをすればよかったんじゃないか」「あの選手をこの位置で使えば」「あの選手を投入すれば」など、いろいろと思うこともある。その中には当たっていることも、ひょっとしたらあるかもしれない。専門家の方や経験者の方が書いているものについては、かなり当たっているのだろうと思う。

 サッカーでも小説でもつまるところ「見た人、読んだ人の分析、受け取り方がすべて」というのは、大まかにいって間違っていない。単純に面白かった、面白くなかった、でいいと思うしチームも選手も作家も、原則として感想や評価は観客や読者にゆだねるべきだろう。「お金を払っているから云々」ではなく、人に見せる、見られるということはそういうことだ。
 
 ただし、それは評価する側が雑誌の記事やこうしてブログに記載する際にも付きまとってくる。「その評価、感想は妥当であるか?」という問いがなされるのは必然である。その場合には、大げさに言えば評者の眼力や水準が問われることになる。私が好きなフィッツジェラルドの小説の評価、感想の場合でも、例えば1920~30年代のアメリカの文化経済状況を知った上でのものと、そうでない場合には、当たり前だが深みに違いが出る。もちろん当時のアメリカの文化経済を知らなくでも読めるし、面白い。それでいいのだが、そこを踏まえると評価の精度はより増すし、人物の心情にさらに想像を巡らせることができて、より面白く味わえるのは間違いない。
 
 作品が残り続けていく小説と違い、基本的には同時代的であるサッカーの場合なら、まずは基本的な戦略、戦術(すべて戦術でひっくくられているケースが多々あるが)と、ある程度の経験だろうか。布陣ごとの特性を知っているほうがより的確な評価はできるだろうし、プレー経験があるほうが感想の説得力があるのは当たり前だろう。
 また、サッカー評論、感想には「ああすればよかったのでは」という采配論が不可分でもある。このあたりは、小説にはあまり見られない(もちろん指摘がなされるケースがあるのは承知の上だ)。
試合の感想を言い合ったり、評論する際の醍醐味の一つでもある。この場合も知識や経験があったほうが説得力が高いのだが、もう一つ、現場の事情をどこまで把握しているか、も大事になってくる。「なぜあの選手を使わない」といっても、故障などを抱えているのかもしれないし、試合や先々を見据えて優先して使いたい選手や相手との相性を考えての起用かもしれない。布陣や交代采配も同様だろう。
 「なぜサイドを攻めないのか」という戦略、戦術の類の疑問についても同様で、ここぞ、というところでサイドを突くためにあえて中央攻撃を「撒き餌」にしているケースだってあるだろう。ラモス瑠偉さんだったとおもうが、「勝負どころのために、あえて捨てパスを出していることがある」と いう専門誌のインタビューを読んだことがあるし、トップレベルのゲームでは、相手や味方選手の気性なども計算に入れた、相当細かい駆け引きがあるとも聞く。
 こういった意図をくみ取るのは試合後に相手方もふくめて選手や監督に取材しないと無理だろうし、取材しても煙幕を張られることだってあるだろう。ピッチ上で起きた現象の分析を高精度に評価することと、望ましい現象を生み出すために「必要だった」手段を提示することは、また別の能力や情報が不可欠だし、当たっていたかどうか証明のしようもない作業だ。

 小説もサッカーも感想、評論、批評は楽しく、欠かせない魅力であり、それ自体がジャンルを豊かにしている活動であり、ジャンル自体が改善、向上される部分があるのも事実だろう。ただ、それらはあくまで成立した作品、戦い終えられた試合それ自体を超えるものではない。サッカーでも代表戦やJFLなどカテゴリー問わず、一部の専門家やネットの評論で「全能の神」のようにふるまう向きもあるが、空論であるという自覚をもうすこし持ったほうがいいんじゃないかな、と思いつつ自省は欠かせないよな、と考える近頃であった。

年末年始のサッカー雑感

 年が明けてチームも始動しているようだが、望月選手退団のリリースのみ。毎年こんなペースなので今年も気長に待つとしよう。
 年末年始はなんやかんやであまりサッカーを観れなかった。テレビで高校サッカーを2試合ほど観たのみ。放送されていた試合がたまたまそうだったのかもしれないが、技術に加えて球際の寄せの速さ、激しさもアップしていた、と感じた。この年代のベースは確実にアップしているのは間違いないと思う。
 ハイレベルなサッカーに触れる機会が少なかった一方で、低学年のサッカー大会を2日ほどまるまる観る機会があった。フットサルサイズのコートで7対7、交代など自由という形式が標準的なものなのかどうかは分からなかったが、いろいろなチームを眺めていて楽しかった。
 コートが小さいのと低学年なのでどうしても団子サッカーになりがちだが、その中でもボールを足裏でコントロールしてキープ、突破できる子はいるし、周りをみてパスを出せる上手な子もいた。狙いすましたフリーキックを決めた子もいたし、大人顔負けのきれいなセービングを披露したGKもいた。自分が近所でたまに見ている範囲だけれども、近年の少年サッカーはどのチームもドリブル指導を重視している印象がある。指導者にもよるのだろうけれど、ドリブルの種類としては宇佐美選手なんかがやるような「ボールをなめる」系統のものが多いように思うし、この2日でもそうだった。
 試合で「ドリブルでいくな、空いてるとこにパスしろ」というような指導者の方もいたが「ドリブル推奨派」のほうがやはり多かった。こういったドリブルで突破できるのは、やはり運動神経のよさそうな、やんちゃそうな、足の速そうな子がほとんどで「うまいなー」と感心するとともに「みんな似ているな」(決して悪い意味ではなく)とも感じる。
 そういった子が卓抜なプレーで目立つ中で、たぶん苦手だったのだろうドリブルはほとんどしないのだけれど、存在感を放っている子がいた。結構なぽっちゃり体型で足が速いわけでもなく、プレー中の自己主張も控えめな「大人しい子」だった。ただ、「蹴るボールの質」「見ているところ」は明らかに異彩を放っていて、この年代では珍しくぴったりのサイドチェンジ、後ろから出すロングパスをほとんど決めていた。「こんな子もいるんだなー」とほほえましく見ていたら、驚いたことに、一度だけ最前線に顔を出してボールを受けた時、DFがすぐに詰めていたにも関わらず、GKの位置をよく見てロングループシュートをあっさり決めていた。相当難易度の高いプレーにもはしゃぐでなく、仲間の祝福に照れていたところがまたほほえましかった。
 この子のプレーがもちろん素晴らしかったのだけれど、試合を見ていてそれと同等に、このチームの指導者も褒められるべきだな、と思った。ほかのプレーヤーにもそうだったが「パスをしろ」とも、「もっとドリブルで行け」とも言わず、成功したプレーはほめ、失敗したプレーは咎めず、適切な助言を送っていた。流行りのプレーに流されるのではなく、一人一人の子をしっかりみて、楽しく、自分の良さがでるプレーができるように温かく構えてらっしゃる印象を受けた。
 低学年相手に怒声を飛ばすことしかしない指導者は論外としても、「育成年代ではまずドリブル」(間違いではないにしろ)と、ついつい型にはめがちなことろで、そうではないプレーをここまで伸ばす、というのは相当に懐の広さが求められるのではないか。「上達させてあげたい」というのは指導者の本能だしそれでいいのだが、個々のよさ、楽しさを生かしながら伸ばす、というのはいうほど簡単ではない。
 いろんなチームのコーチングなどを拝見できたが、改めて子ども相手の指導は、ある意味で大人相手以上に大変な仕事だと痛感したし、現場は本当にいろいろな模索をしている。メディアでは「育成に問題がある」と大上段に構える評論家も多く、以前はそうだな、とも思っていたが、こういった場に足を運ぶようになって本当に現場をみているのかな、と疑問に感じ始めている。問題提起は必要であるが、現場で子供たちに向き合って試行錯誤している指導者を支えていく評論も不可欠であろう、と感じた年末年始であった。
 

サッカー観

 なかなかすっきり、とはいかないW杯最終予選。一部メディアでは監督の資質に関する疑義、解任話まで出るようになった。うまくいかないときにそういう話が出るのは当たり前であり、常に疑問をつけるのはメディアの一定の役割だと思うのでそれ自体は構わないし、個人的にはハリル監督のサッカーは特にいいとも悪いとも思わない。
  ただ、最近の議論ではハリル監督に批判的なメディアなり識者の「サッカー観」が少し気になる。端的に言えば先日の豪州戦への評価なのだが「勝てた試合を落とした」「引いて守ってばかりだった」という批判が見受けられる。指摘自体は別に間違いではない。引いて守っていたのは事実だし、勝ちかけていた試合だった。疑問があるのは「引き分けではそんなにダメなの?」「引いて守っちゃダメなの?」という点だ。まず、メディアや識者が試合前のプレビューで「攻撃的に勝てる試合だ」としていたならともかく、「日本の力は落ちている。何としても最低勝ち点1を」という論調が大半だったように思う。アウエー豪州での勝ち点獲得自体久方ぶりだったはず。勝つほうがいいに決まってはいるが、「最低限の結果」というのは、これを下回らなければ一応はオッケーのはずなのに引き分け、という結果への批判はおかしく感じる。
  また「引いて守った」「攻撃的でなかった」という批判にも首をかしげる。それこそメディアや識者がブラジルW杯後に「ポゼッション、攻撃指向にこだわる『自分たちのサッカー』で失敗した」「相手に合わせた堅固な守備からカウンターのサッカーもできないと」と大合唱したばかりではないか。豪州とのかみ合わせもあったが、見ている限り、両ウイングも下がり目で2列のブロックを敷いて守るしたたかなやり方が見事にはまっていたし、そこからの速攻で実際に得点もしている。セットプレーはともかく豪州に崩されたり、放り込まれてのピンチは皆無と言ってよかった。終盤は勝てそうな雰囲気もあっただけに、攻撃的な選手交代も、とも思ったが「リスクを負って勝ち点を失うなら引き分けで良し」とする采配はよく伝わってきた。
 
  「最低限の結果」なのでハリル監督を絶賛する必要はないだろうが、かといって「采配に疑問」とか「解任」という文字が躍るのはなんでかな、と考えていたが、そういう記事を流すメディアや識者は「日本代表は攻撃的でどんな試合展開でも勝利を目指すサッカーをするべき」という前提というかサッカー観が強固にあるんだろうな、と感じるようになった。
  別にこれはこれで悪いことだとは思わない。ただ現実的かというと「?」だし、ブラジルW杯後も「日本はポゼッション、攻撃サッカーでいくべし」と論陣を張るべきだろうし、「ザックジャパンは間違ってなかった」とするべきなのではないか。
  こういった一貫性に欠ける機会主義的な論調はどうなのかな、と思うが、それよりもさらに深刻だな、と感じるのは「『守備的』への批判=常に攻撃的に試合を進めなければ=すべての時間帯で点を取れるように優位に試合を進めるべき」というサッカー観だ。もちろんこういうサッカーができたら理想的なので、そこを目指すのも間違いではないだろうが、日本にワールドクラスの選手が全ポジションに複数そろわないとなかなか現実味はない。相手も、それなりの水準の選手たちが日本に勝つなり点を取られまいと一生懸命やってるわけで、すべての時間帯でうまくいく、なんてことがあるわけもない。うまくいかないときは我慢してしのぐしかないし、リードしてるなら相手をいなしてボールをだらだら回したり、大きく蹴っていなすのも有効だ。先制されたら「早く追いつきたい」のは確かだが、前がかりになって追加点を取られる恐れだってある。なら時間帯によっては我慢して終盤にラッシュをかける、という手だってなくはない。豪州戦だって勝利を希求して攻撃的な選手を入れた結果、勝ち点を失ってしまった可能性だってなくはないのだ。
  「常に攻撃的であれ」というサッカーは魅力的だし、できるならそうしてほしいとも思う。ただ、そればかり追求していると、代表ができる「サッカーの幅」が狭くなってしまう。「常に攻撃的」なサッカーがうまくいかなかったときの引き出しがなくなってしまうと思うのだ。それが日本サッカーにとってよいのかどうか。「自分たちの好きなサッカー観」を押し付けることがいい結果を招くのかどうか、一度考えてほしいところだ。

原口元気選手

 昨日のイラク戦でも活躍してくれて、代表中核の位置も見えてきた。プレスバックのために駆け戻ってボール奪取に関与して、そこから休まず駆け上がってゴール前、しかもニアポジションに顔を出す献身性と運動量、高い意識が生み出したゴールといってよく、一連の流れは、ユース選手に見せてお手本にしてもいいくらいのものだと思う。その後も守備面では左サイドに蓋をし続け、攻撃面では好クロスやドリブルからのFK獲得など、原口選手らしさを出して躍動し続けてくれたと思う。
 原口選手の大ファンではあるが、組み立てへの参加なんかはあまり上手ではないな、とみているので左サイドからの仕掛けをチーム全体で有効に使えるように、原口選手もそのための動きをよりスムーズにできるようになるとかなりの武器になってくるはずだ。

 ロンドン五輪に出られなかったが、見渡せば同世代の五輪出場組で確固たる地位を築いているのは清武選手、両酒井くらいか。酒井高選手にしても五輪では重用されたとは言い難い。五輪信奉の強い日本では割をくっている感はあるが、注目され始めたのは今後の下の世代にとってもよいことだと思う。最近は海外組の不振もあってか「斎藤選手を呼べ」との声が結構あり、理解はできるが、ロンドン、ブラジルと斎藤選手と比較されて落選した、と感じているファンの立場からすると「まず海外で結果だしてからね」と思う。Jでの結果なら、ロンドン、ブラジル時も原口選手が上回っていたわけだし。

 原口選手びいきではあるが、出番が増えてきたのはハリル監督の指向するサッカーだから、という面も確かにあると思う。最近やっとわかりかけてきたような気がするが、縦に早くボールを出して「あとは2、3人、多くても4人くらいで手数かけずにシュートまで持ち込もう」というのがハリル監督のやろうとしていることだ。引いて守ってのカウンターとも、ボール保持からの崩しとも違い、一時期のドルトムントのサッカーとも異なる。うまく表現はできないが「中堅国のいいサッカー」なのだと感じる。割に当たり前のサッカーだとも思うが、振り返ると代表でこういうサッカーをやっていた時期はほとんどなかったように思う。ザック監督が一時期やろうとしていたけれど、いつの間にかなくなってしまったし。こういうサッカーだと、チャンス自体が増大するというわけではないので、アジア相手に大量点というわけにもいかない。ただ個人への比重をすこし重くしていく「中堅国の当たり前」のサッカーも身に着けておかないと、いつまでも「ポゼッションがカウンターか」の不毛な議論を繰り返すことになってしまうので、苦しい局面を迎えているのは確かだが、必要なことなのだと思うようになった。
プロフィール

蹴球四十雀

Author:蹴球四十雀
滋賀のサッカーJFLチーム「MIOびわこ滋賀」を心の底から応援しつつ、たまにフットサルで息を切らす。一方、書斎での濫読(純文ラノベ歴史ノンフィクション)や琵琶湖周辺の野山歩きもこたえられません!

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