「ディス・イズ・ザ・デイ」

 新聞連載中から気にしていたけれど、間が空いたり、読めなかったりする時もあり、新刊を待ち望んでいた。せっかちな性分で通し読みでないと落ち着かないので、やっと買えた、通し読めた、という安堵感に浸った。

 さて、J2を舞台に、ある年の最終節に臨む22クラブの、22人のサポーターの物語である。最終節11カード分、11の章立ての連作短編だ。同じ日、同じ時刻、同じリーグの戦い(昇降格含む)が一つの焦点なので、クラブの成績のみならず、日本各地に散る登場人物の動向も時に交差する。クラブは架空の設定だが、どこをモデルにしているかJ2を見ている人なら分かるところもある。

 さて、主人公はサポーターたち、あるいはサポーターたちの人生だ。好きだったクラブから離れてしまったことに自責の念を抱えたり、ずっとスタジアムに通うことが当たり前だったり、サッカーに詳しくないのに、好きな人を追って観戦することになったり、うだつのあがらないクラブとのつきあいに疲れたり。子どもから老人まで、それぞれの人生を抱え、それぞれの人生がサッカーに、クラブにリンクしていく物語だ。
 クラブは、サッカーは登場人物たちにとって、時に呪縛となる。重荷となることもある。応援していても成績はあがらず、やめてしまいたい、とも思う。人生だって、いつもうまくはいかない。家庭内不和、仕事の悩み、恋人との関係‥22人、22通りの生き方がある。しかも「2部」。時に弱くて馬鹿にされ、なんで応援しているのか、と奇異の目にさらされたりもする。「やっぱ観るならバルセロナやユベントスだろ」的なことを言われることもある。カテゴリーが違うとはいえ、いい年となり、10年くらいMIOびわこ滋賀を応援してきた身にとっても他人事ではないようで、カテゴリー問わず国内サッカーのサポーターならだれもが一度は抱く感覚が描かれているのではないか。
 
 それでも一人はこう思っている。「ずーっと一人で冷たい広い川を渡っている感じ。つまんないのが普通で、でもたまにいいこともあって、それにつかまってなんとかやっていく感じなのね。~の試合があってくれるってことはさ、そういうところに飛び石を置いてもらう感じなのね。とりあえず、スケジュール帳に書き込むことをくれるっていうか。それってなんかむなしそうだけど、でも、勝負がかかってんのは事実なんだから、べつにむなしくもないんだよ」。サポーターたちは、多かれ少なかれ、そうやって生きていく。

 横浜フリューゲルスをモデルにしたであろう、消滅してしまったクラブの選手のその後を追い続けるサポーターの物語がある。17年前の17歳の時、クラブが突然消滅し「身体の中の血液が全て足元に落ちていくような」気分になり「飲んでいた紅茶が突然廃水の味になったように思え」て何度も口を洗う。「時間の止まってしまった人というのは、ある意味では幸せだけれども、自分の年齢ではまだ早いと思う。他のチームを好きになる時間はいくらでもあったし、サッカー以外にもおもしろい競技はある。なのに17歳からの17年間を、止まった時間の断片の行方を追うことに費やし」て、最後の一人を観にやってきた。目の前の試合を観ていても、想いは過去にある。それでも、サポーターの時を再び動かすのもまた、愛するサッカーであり、ともにあるクラブなのである。

 試合の描写はもちろん、スタジアムグルメやゆるキャラ、チャントやゲーフラなど、圧倒的な取材をベースに、津村記久子さんの抜群の筆力とサポーターへのまなざしが生み出す「サッカーと生きること」「クラブとともにあること」の物語だ。サポーターの自意識を絶妙なバランスで描く手腕はさすがに、一流作家さんである。
 11章で描かれた特別な最終節ののちに、昇格プレーオフと入れ替え戦のエピローグがある。やっぱり今そこにあるサッカーを愛するのはいいなあ、と思う。

※勝手に北からクラブのモデルを推測
ネプタドーレ弘前  =ラインメール青森
遠野FC      =グルージャかと思ったが?
白馬FC      =山雅でもパルでもなさそう
CA富士山     =甲府でいいのかな?
川越シティ     =特になさそうだが
松戸アデランデロ  =同上
三鷹ロスゲレロス  =思いつかない
カングレーホ大林  =FC東京?
熱海竜宮クラブ   =思いつかない
ヴェーレ浜松    =ジュビロ磐田
鯖江アザレアSC  =サウルコス福井?
琵琶湖トルメンタス =MIO琵琶湖滋賀!
オスプレイ嵐山   =京都サンガ
伊勢志摩ユナイテッド=ユナしてないし
奈良FC      =奈良クラブ
泉大津ディアブロ  =セレッソ大阪?
姫路FC      =おもいつかず
松江04       =松江シティ?
倉敷FC      =ファジアーノ岡山?
アドミラル呉FC  =一部サンフレッチェ
モルゲン土佐    =高知?
桜島ヴァルカン   =鹿児島ユナイテッド

本を手に順位を確認するのもまた一興。
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フィッツジェルド

 食わず嫌いだった。海外文学ならまず仏露独英、アメリカは格落ちだろうと肩肘張っていた。根拠なき先入観で、大学の先輩に「グレートギャツビー」良かったよ、と薦められても手が伸びなかった。すべてが間違いだったが、それも結局触れたから分かったこと。時間の経過こそあれ、過ちは取り戻せた。

 社会人になってすぐだっただろうか。赤い背表紙が印象的な、野崎孝さん訳の新潮文庫版だ。短編集が先か、ギャツビーが先か、軽い読み物でもと思ったからか、友人が好きだったサリンジャーを読んだ後だったからか、村上春樹さん作品の影響なのか、きっかけはもう覚えていない。
 おそらくギャツビーが先だったと思うのだが、食い入るように読んだとか、一心不乱に耽ったとかではなかった。ただ、読み終えた後に、ああ、と長嘆し、窓外の天気が良かったように思う。長嘆は、短編集の「冬の夢」「氷の宮殿」「金持ちの青年」でも同じくした。村上春樹さん版も岩波版の短編集も光文社文庫も買い、「ラストタイクーン」「夜はやさし」も読み、原書も3冊ほど手に入れた。その中には「パット・ホビー」シリーズも含まれていた。
 「グレートギャツビー」はいうまでもなく、野崎さん訳の短編集とともに、主たる作品として「カットグラス」や「メイデイ」「ジェリービーン」などがお気に入りだ。部屋には、本棚のほかに、特にお気に入りの作家やジャンルのための小さな棚を4つ設けており、フィッツジェラルドは、カーヴァーとともにその一つ、最も手に届きやすい場所を占めている。

 フィッツジェラルドの魅力を語るには、あまりに力量が足らない。軽やかにして真摯な筆致、自身も含めて絶頂期のアメリカとその後を暗示する予言性など、研究者や愛好家に語り尽くされていようし、一方で語ってもなお、語り足りぬ。
 「乗り継ぎまでの3時間(Three Hours between Planes)」という小品がある。それなりの地歩を築いた男が、少年時代に片思いをしていた女性を訪ねてやっぱりだめだった、というだけの話だが、人生の後半生はいろいろなものを喪失してゆく長い過程であって、特別どうこういうほどもない、と締めくくる。「バビロン再訪(Babylon Revisited)」は、「もはや一人でも夢や希望を抱けるような青年ではない」中年男が、それでも分かれて暮らす娘とともに過ごす日を待ち望んで、物語は終わる。
 喪失に浸る甘い感傷ではなく、再生の予兆をはらみつつも、曇りなき希望ではない。生きてきたことと、失ったもの、そして今の自分に思いをいたす。それで充分だ。それでも、時々、素人なりに作品ごとの好きなところを書き綴っていきたい。私の後半生の傍らには、いつもフィッツジェラルドの本があるだろうから。

武侠小説をもっともっと

アクションものが大好きだ。ジャッキーチェンやリーリンチェイの映画や、「柳生一族の陰謀」や「暴れん坊将軍」といったTV時代劇に心躍らせ、白土三平の忍者漫画は何度も読んだ。はじめからバトル描写を目的とした「格闘モノ」というよりは、使命なり時代なりを背負い「いきがかり上闘いが生じる」ほうを魅力的に感じているようだ。
 もう一つの流れとして、中学生のころに三国志と水滸伝にハマってしまったため、中国系の読み物は自然と視野に入ってくることになり、いつか金庸にたどりつくのは必然だったのだろう。といって、触れたきっかけはあいまいだ。たぶん映画「スウォーズマン」で原作が金庸だと知ったはず。できれば刊行順に読みたいという性分で、手に取ったのは「書剣恩仇録」から。すべて読んだ今でこそ、金庸作中の№1ではないと思うが、紅花会メンバー(無塵道人が渋カッコいい)の活躍はやはり胸躍るもので、早々に全作を読み終えた。ほかに現在入手できた分は「七剣下天山」「陸小鳳シリーズ」「三侠五義」「児女英雄伝(後半は遅咲き知事学海さんの物語だが)」がある。

 その中で、私の心をくすぐる「なにやら凄そうな技」「外功よりどちらかと言えば内功」「強いやつの上にさらにとんでもないボスキャラがいる」などの要素をすべて満たしているのは、金庸作品ということになる。さらに金庸の場合は、史実と絡ませる手法、登場人物の造形が現代的で親しみやすい点が大きい。梁羽生もいいのだが、邦訳が一作しかないのが痛い。
 加えて、ほぼすべての作品に横たわる「喪失の物語」に惹かれているのだと思う。金庸シリーズの掉尾があれかよ!の「鹿鼎記」ですら、韋小宝個人の幸福感はともかく、世間から姿を消すという道をたどっている。雑狗種、張無忌、袁承志もいなくなるし、楊過と小龍女もフェードアウト組だ。郭靖は襄陽に殉じてしまい、すべてを引き受けて逝った喬峯はいうまでもなく、令孤沖、段誉、虚竹ですら、門派や親族など失ったものの重さはなまなかではない。飛狐も狄雲もたいがいであろう。動機やいきさつはどうであれ、強さを極めた先にある、時に虚無的とも言える無常観は、実に普遍的なものを描き出しているのではないか。
 日本ではなじみがあるようでない、ないようである微妙なジャンルだ。当然のこととして思考、行動様式が「大陸流」なので、日本でいまいち広がりにくいのか、と推測するが「中国ではそんなもんなのね」と割り切ってしまえば、むしろ面白要素となる。アクション技術の発達とともに、近年の映像化作品も見応えがあるものが多い。大河ドラマ並みのボリュームですべて観るのも一苦労だが、レンタル店では韓流に押され気味なのが残念だ。
 というわけで、金庸は徳間書店が出してくれたが、古龍や梁羽生の未邦訳刊行、再版、そのほかの作家さんの邦訳があるとうれしいなあ、と思いつつ古龍の絶版邦訳分を古本で探し始めようかな、と思うのだった。

読書スタイル

 本を読む状況、時間、場所、姿勢は人によってまちまち。とはいえ、ほかの趣味などに比べ、個人的な行為なのであまり人目に映る機会が少ない。ほかの人がどうしているのか不明だが、自分の場合を簡単に振り返ってみたい。

 場所 
 当然ながら、自宅が最も多い。自宅と言っても、リビング、書斎、寝室に分かれる。書斎があるのに、一番本を読む時間が長いのはリビングで、書斎は書き物、調べ物中心となった。長時間の読書には、くつろぎが欠かせない。基本的にはリビングの明るい窓際がお気に入りだ。季節が良いと、ベランダにいすを持ち出したりもする。時折空や木々を眺めていると、自然と目が休む。
 寝室では眠る直前にライトを付けて、というパターン。あまり目に良くないのと結局眠くなるので、若い頃のように長々とは読めないが、寝る前にどうしても進んでおきたい(主に洋書)、という日が多い。若い時分は興が乗るとそのまま空が白むまで読んでいたこともあったが。
 外出先では、喫茶店、職場だろうか。職場は頭の中を仕事が占領しているので、結局あまりはかどらない。時に河川敷などに行くこともあるし、サッカー観戦前に読むことも。ただ、サッカーはやはり試合に意識がいくし、河川敷も景色はよく、幸福感この上ないが、羽虫がまとわりついたり、風が邪魔して読書としてはあまり進まなかったりもする。以前は歩き読みをしていたこともあったが、目によろしくないのと、なんと言っても危ないのでやめにしている。
 没頭できる、という観点では意外に電車がいい。私の場合は立ったままでも苦痛にならないし、適度なざわめきがちょうど良いのだ。長時間の新幹線も同様だ。学生のころ、青春18切符で旅した際、朝から晩まで読んでいたら、翌日の起床時にめまいがしたので、ほどほどにしないといけないが。

 時間帯
 夜型なので、午後9時を回ってからが本領だ。ただ休日は午前中から本を開くことも多い。洋書などを読んでいると、やはり集中力に関しては朝方のほうがある、ということが実感できる。早朝読書は小さい頃やったことがあるが、今は目の焦点がなかなか合わないような気がするのと、脳に糖分がいってないのか頭がぼうっとするので駄目だ。 食事中も、一人で食べるときは読む。ただ、この場合は活字中毒を緩和するためなので、雑誌や新聞でもいいし、本なら軽いものになる。
 シチュエーション
 できれば飲み物がほしい。集中力向上と気分転換になるコーヒーと、糖分補給にちょっとしたお菓子があればいうことがない。お酒は呑めないのだが、時代小説などは酔いに任せて読むのも楽しい。音楽はその時の気分によりけり。基本的には歌詞がない方が集中できるので、クラシックか映画のサントラのようなジャンルをかける。中国モノなら中国映画のサントラ、というセレクトもあう。
 音に関して言えば、難解な本を読むときなどは完全な静けさがほしい。一方で、軽いざわめきがありがたい時もある。先述した電車の中などがそうだ。不思議なもので喫茶店のおしゃべりはかなり気になる(喫茶店はもともとそういう場所なので、こちらが場所を変えるべき話だが)のに、電車や公園などは全く気にならない。


 姿勢
 机に向かって読むことはあまりない。首が凝りやすいからだ。また座り仕事が中心なので、本を読むときはなるべく足を伸ばしたい。そのために一人がけの低いいすを買ったので、そのいすにゆったりかけ、足を伸ばすのが最も多い姿勢だろう。家具屋さんなどで試した限りでは、ハンスウェーグナーの適度な傾きの一人がけソファが一番あうけれども、いかんせん高価。今の読書いすでも充分なので、このいすを使い続けることになろう。
 あとはソファに寝たり、ベッドに枕を重ねてなるべく首や肩が凝らない楽な姿勢をとることが多い。だらしないといえばだらしないが、今更直しようもない。

 ざっと思いつくだけでも、結構いろいろな読書スタイルを使い分けている。ほかの人がどうしているかも、知りたいもの。

「私小説」は佐伯一麦さん

 雑多な読書しかしていないので、文学愛好家の方々からすれば大層に聞こえるだろうが、それでもいくばくかは「私小説」を読んだ私にとって、「私小説」といえば、佐伯一麦さんだ。多作とは言いがたいので「一輪」「ア・ルースボーイ」「木の一族」「遠き山に日は落ちて」を手にして、何年だろうか、しばらく間が開いた。その後に「鉄塔家族」「還れぬ家」「渡良瀬」等を読んだ。
 
 アルコールや、ほこりや汗のにおいがする。電気工事に使う工具類の重さや作業着の汚れが見えるようだ。家族間の苛立ちや軋轢もうかがえ、いたたまれない気持ちになる。それでもいつも、真面目、誠実、真摯な骨組みがいつも浮かび上がってくる。佐伯さんが思うに任せぬ(任せないのだろう、と想像するだけだが)人生に向かい合う、というかしっかり距離を測っている姿が思い浮かぶのだ。その距離を計測しているのは、佐伯さんの「小説を書く」行為ではなかろうか。書くことによって、実に多くの摩擦や分解が生じる。それでも、佐伯さんは書くのだ。その意義を声高に訴えるのではない。ご自分を卑下されるのでもない。ただ、自分と、手の届く範囲の身の回りを、ひたむきに誠実に見つめている、と感じる。
 
 佐伯さんも年齢を重ねられ「鉄塔家族」などは、やや落ち着いた風もある。ただ、得体の知れない出来事が噴き出していきそうな、危うさはある。自然や隣人の描写も素晴らしい「鉄塔家族」を評して「スローライフ小説」とする向きもあったが、決してそんな生やさしいものではない。誠実に見つめているからこそ、落ち着いた生活の底にある不安、いつ噴き出してくるか知れない過去の破綻を抱えていることが、うすうす、という具合なのだ。決して、そこから目を背けない作家さんなのだろう。
 「書くと言うことが生きること」佐伯さんの小説を読む度に、この言葉が頭をよぎり、背筋が伸びる。その真摯な向き合い方に、己の頭は自然と下がる。
 
プロフィール

蹴球四十雀

Author:蹴球四十雀
滋賀のサッカーJFLチーム「MIOびわこ滋賀」を心の底から応援しつつ、たまにフットサルで息を切らす。一方、書斎での濫読(純文ラノベ歴史ノンフィクション)や琵琶湖周辺の野山歩きもこたえられません!

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