Twitter文学賞を巡って

 新刊をほぼ読まないので投稿したことはな「Twitter文学賞」を実施しているのは知っている。海外部門と国内部門に分けてその年に刊行された作ならば一人(1アカウントいが、ネットで書評家の方々が中心になって)一票があるそうだ。
 なかなか新刊を読まない自分にとって縁がない取り組みなので、結果も特に注目はしていなかったが、今年は加藤シゲアキさんの作品を巡ってのやりとりが目立ったので、興味深くやりとりを見ていた。一連のやりとりをみるまで加藤さんのことも作品も知らず、作品評などはできようもないが、加藤さんの懐の深い対応とファンや書評家の方々の真摯なつぶやきでひとまず丸く落着、よかったなという印象を受けた。
 
 また、加藤さんのファンや書評家の方々のやりとりを通じ、「小説の評価とは何か」を考えるいい機会になった。小説の評価でまずシンプルに思いつくのは「面白さ」だろう。「手に汗握る」なのか、「思わずうなる」なのか、「深く感心する、涙を催す」なのか。方向性はあれども「読み手の感情を大きく揺さぶった=面白かった」は極めて重要な要素だ。これでほぼ決まる、といってもいいのかもしれない。
 もう一つ、面白さに付随して「何を描きだしているか」や完成度も作品評価の要素だと考える。言葉の選択や並べ方で世界を浮かび上がらせる技法、あるいはこれまで思いつきもしなかったような世界の側面に焦点を当てる、といった部分は「作品評価」を考える場合に欠かせない。読書中は必ずしも感情を揺さぶらなかったり、難解だったりしても、読後にずっしりとした重みを抱えてしまう、長い目で見ればその後の世界観が変わってしまう本もある。設定やストーリー展開で感情を激しく揺さぶる本でも、読後に残るものは少なかったり、言葉遣いが雑に感じられる作品もあるし、その雑味があってもなお押し切るパワーを持つ作品もあり、実に多面的だなあと思う。
 さらに評価には比較対象が不可欠で、同じ能力や感性の人ならば、程度はあるにせよ、読めば読むほど評価の精度は高まる、と考えるのが普通だろう。ただ、そうはいっても冊数なんかきりがないし、有限の時間の中での読書経験は一回性の希少価値を有していることも間違いない。

 作品評価は真剣に考えれば考えるほど極めて難しい。自分も今まで読んだ本のベストを選べ、といわれても選びきれないだろう。選考委員会である程度の指針を共有し、鑑識力を備えた人たちが協議を重ねて選ぶ賞と、誰もが参加できる賞では選考基準がずれるのは当然だし、またそのずれには意味があるのだろう。作家さんや書評家の方々にとって、賞の位置づけや獲得の有無はとても大切なものだろう。しかし、一介の本好きとして無責任な立場で言えば、賞への投稿を通じ、自分なりの作品評価を行うことで、改めて作品に向き合ったり、自分の感性や批評眼を見つめ直したり、読書とはなにかを考えたりできれば、それは意義深いことではないだろうか。Twitter文学賞の要項なんかを読んでいると、運営の方々もそういったことも視野にいれておられるのではないか、と勝手に想像する。
 
 今回の件で言えば、一連のやりとりを通じて文庫になったら加藤さんの本を読んでみようかな、という気にさせられた。
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図書館への距離

 図書館はよいところ。なにより本がたくさんある。絶版も、店頭で入手しにくいものもたくさんある。個人では所有が厳しい大型辞書、図録類など各種資料もたくさんある。その上、無料で借りられる。その場でも読めるし、館内はおおむね静かな環境だ。膨大な量の本に囲まれて心が落ち着き、かつ知的に刺激される。本好きの自分には理想の場所といっていい。
 なのに、図書館をあまり利用しない。仕事など調べ物で訪れる、別用で近くに寄り、時間が空いたときにふらっと入ってみることはあるが「借りる」ことはまずない。カードはつくったものの、十数年前に絶版モノを1冊借りただけ。その本も後に古書市で入手した。
 理由は単純だ。借りる手続き、期間内に読み終えるのが面倒、公共の本はわずかでも汚せないので食べながら読めない、図書館内での読書もいいけど寝っ転がって読めない、というところだが、なかでも「気に入った本は自分の手元に置いておきたい」が最大の理由だ。これはもう「所有したい」という好みの問題なのでしょうがない。自宅で気に入った本を手に取っていると、しぜん、足が遠のいてしまう。
 さらに就職し、ある程度本に自由にお金を使えるようになってから買うに際して、別の動機も出てきた。「面白い本をつくってくれる作家さんや出版社、届けてくれる書店にお金を払って支えたい」という思いだ。もちろん自分一人の払う分など知れている。払うと言っても、スペースの関係で文庫本だ。しょせんは自己満足だと分かった上で、勝手に「これは自分の決めごと」にしている。
 というわけで、どうしても図書館から足が遠のく。一度遠のくと、ますます行かない。すると愛着も薄まるし、「自分で買う」行為のほうを重視してしまう。そんな訳だから、文春の社長さんが発言した「文庫本くらいは」も、受け入れられないだろうな、と思いながらも分からなくはない。いくら高尚なことを言っても、作家、出版活動は金銭的な支えないとやっていけない。
 図書館の必要性はもちろん認識した上で、それでも「面白いものをただで読めて当然」「文春の発言はとんでもない」という考え方が当たり前になりすぎるのもどうかな、と思う。あくまで個人の信条、決めごとだが、作品の送り手に敬意を払う立場で居続けたい。
 
 

金庸は喪失の物語

 武侠映画を入り口に金庸にハマったのはもう15年以上前か。「書剣恩仇録」を皮切りに刊行順に手を出し、古本屋を回って全巻入手し、割に早く読み終えた。なんと言っても武術の達人、英雄好漢が次々に繰り出す絶技、大陸を所狭しと駆け回る冒険行、義理と人情、宿縁と恋情の狭間を行き来する登場人物たちの魅力がこの上ない。
 武侠モノの最高峰であると同時に、折りに触れて読み返すにつれ「喪失の魅力」を備えた物語でもあると感じるようになった。「天龍八部」では喬峯は愛する人を失い、段誉は両親を失い、虚竹は両親を知った日に両親を亡くし、慕容復は祖国再建の夢を失う。「笑傲江湖」の令狐沖は、初恋の人も兄弟弟子も育った門派ごとなくなってしまうし、「射雕英雄伝」の郭靖も父母、師匠たちを亡くし、英雄となっても結局国に殉じていく。「神雕侠呂」の楊過と小龍女も、一度は互いを失っており、「倚天屠龍記」の張無忌は最後の最後に仲間を失う。「飛狐外伝」や「雪山飛狐」はいうまでもないし「侠客行」のラストは悲しすぎるほどである。何も失わずに終わるのが絶筆の「鹿鼎記」なのは、喪失の物語ばかり書き続けてきた金庸の意図なのだろうか、と勘ぐってしまうほどだ。
 強さを極め、門派を立ち上げ、何かとうるさい世間でまっすぐな、あるいは軽妙な生き方を貫く主人公たちは、何かを失った悲しみと諦念を抱えて、歩んでいく。その喪失が「正道」を進みながらも人の世の浮き沈みに対する静かな視線を、主人公たちに獲得させていくのだろう。基本的にエンタメなのだが、全作を読むと、そこには激動の現代史を生きてきた金庸の人生観も反映されているのかな、と考えてしまう。

下鴨納涼古本まつり

 下鴨神社で毎年8月中旬に開かれる「納涼古本まつり」に初めて行ったのは、お金がなかった学生時代。社会人になって足が遠のいたが、通いを再開してもう10年近くになる。大規模な古本市はほかにもあるけれど、お盆あたりの、だらん、とした暑さの中、下鴨神社の境内にテントが立つのがいかにもお祭りで楽しい。地味な本好きの世界にも、たまにはこれくらいの華やぎがあってもいいか、と思う。
 
 本漁り中にいやでも目に入るのだが、楽しみ方は人ぞれぞれ。狙いの本や関心分野を中心にじっくり探す人、ふらりと立ち止まって江戸末期あたりの和書を手にとって「面白そう」とはしゃぐ人、そういった来場者も含めて会場全体の空気を写真に撮ってSNSに投稿する人など、多様で「こういう楽しみ方もいいな」といつも刺激される。
 来場者もいかにも本好きな高齢男性や女性だけではない。おしゃれな若い男女が難解な哲学書に手を伸ばしていたり、外国の方が日本人でもなかなか読まないだろう仏教書を品定めしていたり、観光客が浮き立った様子で写真を撮っていたり、と見ているだけで面白い。立地もあるのか、高名な大学の先生や文化人の姿をたまに見かけると、自分も少し賢くなったように錯覚して、やや気分がよい。

 自分はある程度目当ての本(絶版のもの中心)と予算の上限を決めて朝から収納用のリュックで出かける。涼しい下鴨神社とはいえ、人出で暑いので帽子にサンダル、リュックの中には水筒を備えている。
 テント群の端からしらみつぶしに棚を見て、目当ての本、気になる本があれば買っていくスタイルだ。立ちっぱなしなのでお茶休憩に加え、境内の川で手足を冷やす、下鴨神社ならではのクールダウンがありがたい。狙った本や「おっ」という本と出会うと実に嬉しいもの。反対になかなか目当ての本に出会えず、かつ気になるほかの本が出てくると、時間とともに焦りも出てくる。
 しかしそこは焦っても仕方がない。昼食(境内のうどんか出町まで足を延ばすか)を挟んで渉猟を再開、残りのテントを潰していくと、何だかんだと見つかるものだ。予算の8、9割で押さえるべき本を押さえ、あとは気になる本、関心のあまりない分野を冷やかすのも大規模な古本市のよさ。戦前の雑誌や江戸末期の和書を開くと、気分も出てくる。
 いつしか日が傾くころになり、予算枠いっぱいまで買うとリュックはずっしりと重く、肩も足もパンパンに痛い。それでも満足感と、後ろ髪引かれる思いを胸に境内を去る心地はなんともいえない。
 帰宅すれば買った本を並べて手に取り、本棚に移す楽しい作業も待っている。そしてその時点から来年は何買おうか、と思い始める、実に充実した一日となるのだ。

極私的読書論

  「読書は必要なのか?」先日、新聞の投稿欄に若者の声が掲載され、ほかの読者からの反響も交えて、ちょっとした盛り上がりになった。「読書の必要性」あるいは「メリット」については割と定期的に出てくる話題だが、ネットがほぼ普及しつくしたかに思える近年だからこそ、意義のある問いかけだったといえる。中学生のころから趣味を聞かれれば「読書」と応じ、読んだ本を処分できず、本を携帯せずに出歩けるのは近所のコンビニまで(MIOの応援に行くときも必ず荷物にしのばせている。長期旅行だと5冊はないと不安)、という生活を送ってきた人間として、考えさせられるものがあったので、自分なりの見解をまとめておきたい。

  迂遠であるが「読書はなぜ必要?」という問いを考えるには、まず「なぜ読書をするのか=読書の目的」を明確にするところから始めたい。

  読書とは、あたりまえだが、書かれた文字、文章を読むことだ。ふつうは本を思い浮かべるが、書類だろうが論文だろうが、教科書だろうが家電の取扱説明書だろうが行為としては同じことだが、一般的に書店に並んでいる本について問われているのだろうから、その前提で考えることにする。つまり「読書はなぜ必要=本を読むことはなぜ必要」ということだ。

  本を読む、とは「何かを行うための情報収集行為」といえる。「何か」とは、仕事や学業に必要な知識を得ることだったり、家電製品を動かすことだったり、料理の作り方を知るためだったり、なんでもいい。
 しかしこれが「行うため」の段階になると、大きく2つの方向に分かれるように思う。
 一つは得た情報を「実用的に役立てる」というベクトルだ。仕事でも学業でも料理づくりでも、家電操作でも、幅広い分野がこれに該当しよう。
 二つ目は「楽しむため」というベクトルになる。趣味、娯楽としての読書だ。冒険物語に胸躍らせる、謎解きに頭を働かす、恋愛小説に心ときめかせる、私小説に人生を思う…といろいろあるが、要は読み手の楽しみのためにする読書だ。

 「必要なのか」を問う場合には、この2つのベクトルでそれぞれ「本が必要とされているのか」を当てはめるとわかりやすくなると考える。
 
  まず「実用的に役立てる」ベクトルのケースを考えたい。現在日本では年間相当な数の新刊が出ていて、仕事で必要な情報、勉強に必要な知識 、料理をおいしく作る手順、ペットの飼い方など、たいていの分野で本にまとめられている。これを読めばたいてい必要な情報は得られるだろうから、「その分野について知りたければ本を読むことは必要」ということになる。しかし、現代ではこの手の情報はネットでも得ることができ、特に本を買う必要がないことが増えている。スマホを開いて検索するだけ、という行為と、本の中身やタイトルを調べて購入して読む行為とでは、情報へのアクセスの手軽さがまるで違ってくることもあり「必要性」はネット以前と比べると下がっている。
 ただ、ネットが普及したといっても「情報の網羅性・体系性」ではいまのところ、本のほうに分があるだろう。ネットもまとめ記事などがあるとはいえ、まだまだ断片的な部分があるし限定された知識にとどまっている場合も多い。本が完璧、ともいえないが、例えば良質な新書などでは、その分野の説明に加えて、歴史や今後の課題や展望についても、専門家が参考文献などを示してまとめていることが多いので「役立ち度」はかなりのものだ。当然ネットも「網羅性・体系性」の整備が進むので、今後も本が優位性を保てるか不透明ではある。
 

  次に「楽しむため」のケースだ。本を読むことで見知らぬ世界の物語に浸る、悲劇に涙し、笑話に腹を抱える、などなど、実に多様な楽しみ方ができるものだ。哲学書を読んで人生や存在に考えを巡らすのも楽しみといえば楽しみといえる。だが、これも本固有のものとは言い切れない。演劇、音楽、映画、絵画、アニメ、ドラマ、舞踊などほかの表現ジャンルでもにもある要素だ。本も「一つのジャンル」に過ぎないともいえる。
  ジャンルごとに特性はあるものだが、本の特性をあげるとしてぱっと思いつくとすれば「文字表現自体の味わい」「文字という記録特長による歴史性を有している」ことだろうか。バイオリンの絃の強弱、役者のしぐさ、絵筆の運び方、というように、本には文字の連ね方、文章力による味わい、想像力の広がり方というものは確かに存在し、魅力の一つだ。また文字という記録性があるため、古いものでも同じように味わえる、、歴史性を持ちやすい、というのも特性であろう。これがために、演劇や映画など多ジャンルの元ネタは古い文学作品であったりすることも多く、相互作用はあろうが、多ジャンルにも多大な影響を与えているものの「元、あるいはそれに近いもの」を味わうことができる。

結論として「情報を得て何かする(楽しむ、を含む)」ために読書が必要であるか、と問われれば「本を読むことが目的達成に不可欠な場合は必要だが、読まなくても達成できる場合も往々にしてある」ということになる。本にしかない情報、本にしかできない表現なりを求めるのであれば読書は必要だし、そうでなければ必要ではない。至ってシンプルな結論である。


 と、論点をすっきりさせたいから細かく書いたが、今回出てきた「読書が必要か」論は、若者が読書の必要性を説く大人に投げかけた疑問で、一昔前の教養論への懐疑、つまり荒っぽくいってしまえば「読書しないと立派な人間になれないのか」ということだろう。
 「読書で知識教養が身に付き、考え方、人格が陶冶される」とは、一昔前では当たり前の概念だったし、私も周囲にそういわれて育ったし、そう思っていた。この概念は「役立てる」ベクトルになると思うのだが、これは上述したように、知識情報の獲得手段が本にとどまらなくなっている現在、説得力を欠きつつある。上述した本の特性から体系を理解して、論理的な考察を行うために、まだまだ読書は有用であるとは思うが、絶対不可欠の手段とは言い切れまい。
 また、本好きからの反響投稿でよくあるのは「違う世界を体験できる」「いろいろな考え方がわかる(身につく)」というものだ。本好きとしてそういう側面も実感するが、読書だけで得られるものなのか。やはり疑似体験でしかない部分もあるし、考え方の違う他人と実際に触れ合うことのほうが多様性への理解がより深まるのではないか。自分も本好きだから、本の優位性を押し出したい気持ちは当然あるが、この手のメリットを強調するのは結局「読書家の自分の優位性」をアピールすることが目的なのではないか、と思わないでもない。
  
 自分自身にひきつけていえば、きわめて平凡(以下かも)な学習能力しかない人間であるが、読書を趣味としてきたことで、例えば大学受験の国語や歴史分野はとくに勉強しなくてもそれなりの点数が取れたメリットはあったし、研究者の論文も(分野にもよるが)それなりに読めるようになり、仕事にも役立っていると感じる面は多々ある。映画も好きだが、どっぷりと活字を追う時間がやはり至福の極みであり「読書してきてよかった」とつくづく思う。
 好きで読んできた本だが「読書によって教養が付く、賢くなる、人間的に成長するのでは」といった、欲や見栄があった(今もやはりあるな)のは否定できない。「たくさん読めばそれだけ世界が、人生がわかる」「本をたくさん読んでる自分は偉いのでは」と、生意気にも思っていたころもある。が、結局こういうとりとめのない文章しか書けないし、この程度のことしか書けていない。

 そういった思いもふくめて、読書を通じていま漫然と思うのは「世界は一生かけてもほとんど理解できないくらい、とてつもなく広くて深くて、自分はどうしようもなく小さくて、だからそこで生きていくのは面白いし、生きていきたい」というようなものだろうか。高校生のころ、見栄はって我慢しながらドストエフスキーを読んでいて、担任の先生に「お前そんなもんわかるのか、退屈なんじゃないか」と図星をさされてうろたえていたら、隣にいた国語の先生が「それがいいんだよなあ、わかんねえなあ、退屈だなあ、と思いながらも読むってのがいいんだよなあ」と言ってくれた。「それでいいんだ。それも読書なんだ」と、ハッとなった。「わからないことも、退屈なこともこの世界や人生の一部だし、悪いことでもない」。そう思うようになり、以来「わからないこと」もある意味で楽しみになっている。
 
  新聞に投稿した若い人は、周りの大人に「読書しなさい」的なことを言われて反発するような面もあったのだろうが、根底には「読書を通じて何が得られるのだろう、自分の世界や人生がどうなるのだろう」という真摯な心情があるからこその問いかけだろう。 「読書はなぜ必要なのか」を「真剣に」問う人は、≒「自分はどうなりたいのか、ありたいのか」ということを考えているのかもしれない。だとすれば、その問いを深めて考えるためには、まず本を読んでみるといいかもしれないですよ、という当たり前の結論に落ち着くのであった。
プロフィール

蹴球四十雀

Author:蹴球四十雀
滋賀のサッカーJFLチーム「MIOびわこ滋賀」を心の底から応援しつつ、たまにフットサルで息を切らす。一方、書斎での濫読(純文ラノベ歴史ノンフィクション)や琵琶湖周辺の野山歩きもこたえられません!

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