金庸は喪失の物語

 武侠映画を入り口に金庸にハマったのはもう15年以上前か。「書剣恩仇録」を皮切りに刊行順に手を出し、古本屋を回って全巻入手し、割に早く読み終えた。なんと言っても武術の達人、英雄好漢が次々に繰り出す絶技、大陸を所狭しと駆け回る冒険行、義理と人情、宿縁と恋情の狭間を行き来する登場人物たちの魅力がこの上ない。
 武侠モノの最高峰であると同時に、折りに触れて読み返すにつれ「喪失の魅力」を備えた物語でもあると感じるようになった。「天龍八部」では喬峯は愛する人を失い、段誉は両親を失い、虚竹は両親を知った日に両親を亡くし、慕容復は祖国再建の夢を失う。「笑傲江湖」の令狐沖は、初恋の人も兄弟弟子も育った門派ごとなくなってしまうし、「射雕英雄伝」の郭靖も父母、師匠たちを亡くし、英雄となっても結局国に殉じていく。「神雕侠呂」の楊過と小龍女も、一度は互いを失っており、「倚天屠龍記」の張無忌は最後の最後に仲間を失う。「飛狐外伝」や「雪山飛狐」はいうまでもないし「侠客行」のラストは悲しすぎるほどである。何も失わずに終わるのが絶筆の「鹿鼎記」なのは、喪失の物語ばかり書き続けてきた金庸の意図なのだろうか、と勘ぐってしまうほどだ。
 強さを極め、門派を立ち上げ、何かとうるさい世間でまっすぐな、あるいは軽妙な生き方を貫く主人公たちは、何かを失った悲しみと諦念を抱えて、歩んでいく。その喪失が「正道」を進みながらも人の世の浮き沈みに対する静かな視線を、主人公たちに獲得させていくのだろう。基本的にエンタメなのだが、全作を読むと、そこには激動の現代史を生きてきた金庸の人生観も反映されているのかな、と考えてしまう。
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下鴨納涼古本まつり

 下鴨神社で毎年8月中旬に開かれる「納涼古本まつり」に初めて行ったのは、お金がなかった学生時代。社会人になって足が遠のいたが、通いを再開してもう10年近くになる。大規模な古本市はほかにもあるけれど、お盆あたりの、だらん、とした暑さの中、下鴨神社の境内にテントが立つのがいかにもお祭りで楽しい。地味な本好きの世界にも、たまにはこれくらいの華やぎがあってもいいか、と思う。
 
 本漁り中にいやでも目に入るのだが、楽しみ方は人ぞれぞれ。狙いの本や関心分野を中心にじっくり探す人、ふらりと立ち止まって江戸末期あたりの和書を手にとって「面白そう」とはしゃぐ人、そういった来場者も含めて会場全体の空気を写真に撮ってSNSに投稿する人など、多様で「こういう楽しみ方もいいな」といつも刺激される。
 来場者もいかにも本好きな高齢男性や女性だけではない。おしゃれな若い男女が難解な哲学書に手を伸ばしていたり、外国の方が日本人でもなかなか読まないだろう仏教書を品定めしていたり、観光客が浮き立った様子で写真を撮っていたり、と見ているだけで面白い。立地もあるのか、高名な大学の先生や文化人の姿をたまに見かけると、自分も少し賢くなったように錯覚して、やや気分がよい。

 自分はある程度目当ての本(絶版のもの中心)と予算の上限を決めて朝から収納用のリュックで出かける。涼しい下鴨神社とはいえ、人出で暑いので帽子にサンダル、リュックの中には水筒を備えている。
 テント群の端からしらみつぶしに棚を見て、目当ての本、気になる本があれば買っていくスタイルだ。立ちっぱなしなのでお茶休憩に加え、境内の川で手足を冷やす、下鴨神社ならではのクールダウンがありがたい。狙った本や「おっ」という本と出会うと実に嬉しいもの。反対になかなか目当ての本に出会えず、かつ気になるほかの本が出てくると、時間とともに焦りも出てくる。
 しかしそこは焦っても仕方がない。昼食(境内のうどんか出町まで足を延ばすか)を挟んで渉猟を再開、残りのテントを潰していくと、何だかんだと見つかるものだ。予算の8、9割で押さえるべき本を押さえ、あとは気になる本、関心のあまりない分野を冷やかすのも大規模な古本市のよさ。戦前の雑誌や江戸末期の和書を開くと、気分も出てくる。
 いつしか日が傾くころになり、予算枠いっぱいまで買うとリュックはずっしりと重く、肩も足もパンパンに痛い。それでも満足感と、後ろ髪引かれる思いを胸に境内を去る心地はなんともいえない。
 帰宅すれば買った本を並べて手に取り、本棚に移す楽しい作業も待っている。そしてその時点から来年は何買おうか、と思い始める、実に充実した一日となるのだ。

極私的読書論

  「読書は必要なのか?」先日、新聞の投稿欄に若者の声が掲載され、ほかの読者からの反響も交えて、ちょっとした盛り上がりになった。「読書の必要性」あるいは「メリット」については割と定期的に出てくる話題だが、ネットがほぼ普及しつくしたかに思える近年だからこそ、意義のある問いかけだったといえる。中学生のころから趣味を聞かれれば「読書」と応じ、読んだ本を処分できず、本を携帯せずに出歩けるのは近所のコンビニまで(MIOの応援に行くときも必ず荷物にしのばせている。長期旅行だと5冊はないと不安)、という生活を送ってきた人間として、考えさせられるものがあったので、自分なりの見解をまとめておきたい。

  迂遠であるが「読書はなぜ必要?」という問いを考えるには、まず「なぜ読書をするのか=読書の目的」を明確にするところから始めたい。

  読書とは、あたりまえだが、書かれた文字、文章を読むことだ。ふつうは本を思い浮かべるが、書類だろうが論文だろうが、教科書だろうが家電の取扱説明書だろうが行為としては同じことだが、一般的に書店に並んでいる本について問われているのだろうから、その前提で考えることにする。つまり「読書はなぜ必要=本を読むことはなぜ必要」ということだ。

  本を読む、とは「何かを行うための情報収集行為」といえる。「何か」とは、仕事や学業に必要な知識を得ることだったり、家電製品を動かすことだったり、料理の作り方を知るためだったり、なんでもいい。
 しかしこれが「行うため」の段階になると、大きく2つの方向に分かれるように思う。
 一つは得た情報を「実用的に役立てる」というベクトルだ。仕事でも学業でも料理づくりでも、家電操作でも、幅広い分野がこれに該当しよう。
 二つ目は「楽しむため」というベクトルになる。趣味、娯楽としての読書だ。冒険物語に胸躍らせる、謎解きに頭を働かす、恋愛小説に心ときめかせる、私小説に人生を思う…といろいろあるが、要は読み手の楽しみのためにする読書だ。

 「必要なのか」を問う場合には、この2つのベクトルでそれぞれ「本が必要とされているのか」を当てはめるとわかりやすくなると考える。
 
  まず「実用的に役立てる」ベクトルのケースを考えたい。現在日本では年間相当な数の新刊が出ていて、仕事で必要な情報、勉強に必要な知識 、料理をおいしく作る手順、ペットの飼い方など、たいていの分野で本にまとめられている。これを読めばたいてい必要な情報は得られるだろうから、「その分野について知りたければ本を読むことは必要」ということになる。しかし、現代ではこの手の情報はネットでも得ることができ、特に本を買う必要がないことが増えている。スマホを開いて検索するだけ、という行為と、本の中身やタイトルを調べて購入して読む行為とでは、情報へのアクセスの手軽さがまるで違ってくることもあり「必要性」はネット以前と比べると下がっている。
 ただ、ネットが普及したといっても「情報の網羅性・体系性」ではいまのところ、本のほうに分があるだろう。ネットもまとめ記事などがあるとはいえ、まだまだ断片的な部分があるし限定された知識にとどまっている場合も多い。本が完璧、ともいえないが、例えば良質な新書などでは、その分野の説明に加えて、歴史や今後の課題や展望についても、専門家が参考文献などを示してまとめていることが多いので「役立ち度」はかなりのものだ。当然ネットも「網羅性・体系性」の整備が進むので、今後も本が優位性を保てるか不透明ではある。
 

  次に「楽しむため」のケースだ。本を読むことで見知らぬ世界の物語に浸る、悲劇に涙し、笑話に腹を抱える、などなど、実に多様な楽しみ方ができるものだ。哲学書を読んで人生や存在に考えを巡らすのも楽しみといえば楽しみといえる。だが、これも本固有のものとは言い切れない。演劇、音楽、映画、絵画、アニメ、ドラマ、舞踊などほかの表現ジャンルでもにもある要素だ。本も「一つのジャンル」に過ぎないともいえる。
  ジャンルごとに特性はあるものだが、本の特性をあげるとしてぱっと思いつくとすれば「文字表現自体の味わい」「文字という記録特長による歴史性を有している」ことだろうか。バイオリンの絃の強弱、役者のしぐさ、絵筆の運び方、というように、本には文字の連ね方、文章力による味わい、想像力の広がり方というものは確かに存在し、魅力の一つだ。また文字という記録性があるため、古いものでも同じように味わえる、、歴史性を持ちやすい、というのも特性であろう。これがために、演劇や映画など多ジャンルの元ネタは古い文学作品であったりすることも多く、相互作用はあろうが、多ジャンルにも多大な影響を与えているものの「元、あるいはそれに近いもの」を味わうことができる。

結論として「情報を得て何かする(楽しむ、を含む)」ために読書が必要であるか、と問われれば「本を読むことが目的達成に不可欠な場合は必要だが、読まなくても達成できる場合も往々にしてある」ということになる。本にしかない情報、本にしかできない表現なりを求めるのであれば読書は必要だし、そうでなければ必要ではない。至ってシンプルな結論である。


 と、論点をすっきりさせたいから細かく書いたが、今回出てきた「読書が必要か」論は、若者が読書の必要性を説く大人に投げかけた疑問で、一昔前の教養論への懐疑、つまり荒っぽくいってしまえば「読書しないと立派な人間になれないのか」ということだろう。
 「読書で知識教養が身に付き、考え方、人格が陶冶される」とは、一昔前では当たり前の概念だったし、私も周囲にそういわれて育ったし、そう思っていた。この概念は「役立てる」ベクトルになると思うのだが、これは上述したように、知識情報の獲得手段が本にとどまらなくなっている現在、説得力を欠きつつある。上述した本の特性から体系を理解して、論理的な考察を行うために、まだまだ読書は有用であるとは思うが、絶対不可欠の手段とは言い切れまい。
 また、本好きからの反響投稿でよくあるのは「違う世界を体験できる」「いろいろな考え方がわかる(身につく)」というものだ。本好きとしてそういう側面も実感するが、読書だけで得られるものなのか。やはり疑似体験でしかない部分もあるし、考え方の違う他人と実際に触れ合うことのほうが多様性への理解がより深まるのではないか。自分も本好きだから、本の優位性を押し出したい気持ちは当然あるが、この手のメリットを強調するのは結局「読書家の自分の優位性」をアピールすることが目的なのではないか、と思わないでもない。
  
 自分自身にひきつけていえば、きわめて平凡(以下かも)な学習能力しかない人間であるが、読書を趣味としてきたことで、例えば大学受験の国語や歴史分野はとくに勉強しなくてもそれなりの点数が取れたメリットはあったし、研究者の論文も(分野にもよるが)それなりに読めるようになり、仕事にも役立っていると感じる面は多々ある。映画も好きだが、どっぷりと活字を追う時間がやはり至福の極みであり「読書してきてよかった」とつくづく思う。
 好きで読んできた本だが「読書によって教養が付く、賢くなる、人間的に成長するのでは」といった、欲や見栄があった(今もやはりあるな)のは否定できない。「たくさん読めばそれだけ世界が、人生がわかる」「本をたくさん読んでる自分は偉いのでは」と、生意気にも思っていたころもある。が、結局こういうとりとめのない文章しか書けないし、この程度のことしか書けていない。

 そういった思いもふくめて、読書を通じていま漫然と思うのは「世界は一生かけてもほとんど理解できないくらい、とてつもなく広くて深くて、自分はどうしようもなく小さくて、だからそこで生きていくのは面白いし、生きていきたい」というようなものだろうか。高校生のころ、見栄はって我慢しながらドストエフスキーを読んでいて、担任の先生に「お前そんなもんわかるのか、退屈なんじゃないか」と図星をさされてうろたえていたら、隣にいた国語の先生が「それがいいんだよなあ、わかんねえなあ、退屈だなあ、と思いながらも読むってのがいいんだよなあ」と言ってくれた。「それでいいんだ。それも読書なんだ」と、ハッとなった。「わからないことも、退屈なこともこの世界や人生の一部だし、悪いことでもない」。そう思うようになり、以来「わからないこと」もある意味で楽しみになっている。
 
  新聞に投稿した若い人は、周りの大人に「読書しなさい」的なことを言われて反発するような面もあったのだろうが、根底には「読書を通じて何が得られるのだろう、自分の世界や人生がどうなるのだろう」という真摯な心情があるからこその問いかけだろう。 「読書はなぜ必要なのか」を「真剣に」問う人は、≒「自分はどうなりたいのか、ありたいのか」ということを考えているのかもしれない。だとすれば、その問いを深めて考えるためには、まず本を読んでみるといいかもしれないですよ、という当たり前の結論に落ち着くのであった。

洋書始めてはや…

  いい歳して洋書(英語)に手を出して6年ちかく。読みこなせている自信はないが、生活の一部になってきた。まったく読まない日があると気分よく一日を終えられないので、自分なりになじんできたといっていいと思う。

  高校時代の英語は赤点乱発、英作文と発音を半ば放棄して大学受験をなんとかクリアできた程度に語学力は壊滅的。なのに身の程知らずに洋書を読み始めた理由は2つ。一つはもちろん、読んでみたいから。
  若いころから外国文学はそれなりに読んできた。その中でやはりフィッツジェラルドに惹かれたのが大きい(ドストエフスキーとかゴーリキー、トマスマンなども原書で読んでみたいのだが、英語ですら厳しいのロシア語、ドイツ語はちょっと手を出そうという気にはならない)。何度も繰り返し読んでいるうちに「元の文章はどんな感じなのだろう?」と思うようになるのは、自然なことだった。また、以前から日本の作家の作品が海外訳される、という話を聞くたびに、例えば夏目漱石の「明暗」だったと思うけど「『馬鹿かな、それとも利口かな』を『stupid or clever』みたいな感じで表記したところで、英語で置き換えているだけで、日本語の『馬鹿』と『Stupid』の意味合いはやはり少しずれるだろうし、字面や言葉の響きもふくめた味わいが伝わるものなのかな?」と素朴な疑問を抱いていた。
  それは当然自分が日本語訳で読んでいた外国文学にもいえることだ。優秀な翻訳者の方々が手がけているので、ニュアンスや味わいを外すことはないだろうし、そもそも翻訳していただかないと触れる機会さえないのだから、不遜な疑問ではあるのだが、やはり自分なりに原書にあたってみたい」という欲が出てくるのは抑えがたかった。
  二つ目の理由は、増殖し続ける本をなんとかしないといけないから。
  若いころから読み続け、本は手元に置いていきたい性分。作品や難解さによるが、休日ならば1日複数冊を読み終える、という日もあった。「ちょっとこれはな」という本を手放し、気に入った本を泣く泣く処分しても増え続ける本棚ももう限界。洋書ならば読書ペースがぐっと落ち、本の増加ペースを鈍化できる、と踏んで思い切って取り掛かることにした。

  試行錯誤したが、始める時に決めたことは大きく2つ。楽しむ、続けるために「間が空くと、語学的にも動機的にも読めなくなるので、1ページでもいいからできるだけ毎日読む」「フィッツジェラルドやカーヴァーの世界に触れたいのであって、英語力をアップさせたい(もちろんしたら嬉しい)のではないから、無理に訳さず、わからなくてもあせらない」ことを肝に銘じた。
とりあえず読み始め、最初のころは1日10ページ進むのがやっとだったが、慣れてくると数十ページはいけるようになった。日本語訳で読んでいた本もあるし、オースターのように洋書で初めて触れた作品もあり、再読もふくめれば30冊ほど読み終えたことになる。
 当然よくわからない言い回しや単語、文法は多々あるのだが、辞書を引くのは最小限度に抑えて「わかるとこだけわかればいい」のスタンスで突き進んでいる。根気のなさを「英語学習をしているのでない」という言い訳でもって、「This is a penはThis is a penであって『これはペンです』はあくまで日本語に訳した場合の表現」という論法を作り上げ、頭の中で無理に日本語に置き換えないようにもしている。ものによるが、一冊読むのに一カ月から半年というところだろう。英語学習的には間違っているのだろうし、作品をきちんと理解できているか(ストーリーはなんとかいけてる)と言われると怪しいものだ。ただ、日本語の作品でも、細かいところまできっちり読み込むのは簡単そうで案外難しいものなので、まいいか、ということにしている。理解できた部分でも、これまでに学んだ歴史なりなんなりの知識が役立っている部分も大きいので、英語の読解力がアップしているかどうかはやはり怪しいところだろう。

 それでも、背伸びして洋書を読み始めてよかったな、と感じる場ことは多々あった。フィッツジェラルドのキラキラした中に漂う寂しさに支配されたり、カーヴァーの短編に登場する人物の祈りに思わず引き込まれたり、オースターの幻想的な冒険世界にドキドキハラハラして時間を忘れる瞬間は「錯覚かもしれないが翻訳者の方の手を借りずに作品と向き合っている」至福の時以外何物でもないし、錯覚でもかまわない、と思えるほどである。邦訳で未読だったオースターも知ることができたし、未邦訳の米国視点での現代史モノは新鮮だった。表現も含め「読むという行為」に少し自覚的になれたのも思わぬ副産物だった。
 本の増殖もペース鈍化には成功した。それでも日本語本と読むペースが違いすぎるので、困難だろうが、いずれ洋書が本棚一竿分を占めるくらいにはしてみたいものだ。
 
 

水滸伝と北方水滸伝

 北方水滸伝、いわゆる「大水滸伝」シリーズは、岳飛伝の文庫版リリースが始まり、文庫派としても最終盤に向かいつつある。足掛け10何年になるのか、いよいよ岳飛、という盛り上がりとともに、もうすぐに終わってしまう一抹の寂しさもある。最初は違和感たっぷりだった楊令伝もなじめば面白く、岳飛伝にスムーズにつながった。極端に解釈を変えない限り、岳飛が非業の死を遂げるという結末は分かっているわけだが、それでも登場人物たちの個性あふれる生き方にひかれてしまうのは間違いないところだろう。

 中学生の頃に吉川水滸伝を読んで以来「水滸好き」は続いていて、ちくま文庫の水滸伝に加え、杉本版、柴練版も読んできた。それだけに、北方版の解釈は大きな驚きであった。百八星が一堂に会することはないし、宋禁軍はメチャ強い。招安がない代わりにCIAみたいな組織があり、蘆俊儀は武芸が全然できず、宋江はそこそこ腕が立つらしい。楊志はすぐに死んでしまって、王進師範はずっと登場する、など原典との相違は枚挙にいとまがないが「現代においての反乱のリアリティ」は確かにある。原典みたいに、連日牛の丸焼きで宴会してたら戦には勝てんだろうな、と思う。また、百八星の後ろのほうの、原典ではほとんど数合わせのような弱キャラにもしっかりと描写があり、弱キャラだけに共感を覚えるところも多いのも魅力だ。超人的な武芸を誇る豪傑たちの戦闘シーンとともに、兄の死体を見た曹正が怒りで頭に血をのぼらせ、それがあざとなって消えない、といった些細なエピソードが、自分にとっての北方水滸伝の魅力といえよう。

 ただ日本の作家が書いてきた従来の水滸伝以上に原典から変わっているので、これだけヒットして北方版を機に原典に入る人も多かろうと想像される中、原典のドン引き描写がどう受け取られるのか興味深いところでもある。黒旋風は明らかにヒーローというよりはただの殺人狂だし、彼に世話になった知事の息子さんを殺されてやむなく百八星入りする朱同の心理はなかなか理解するのが難しい。そのあたりは中国の「天命」観なのだろうが、そこが日本人にはとっつきにくかったり、だからこそ興味深かったりする。三国志はもう日本に定着しているといってもいいので、北方版が売れることで、水滸伝も三国志並みに定着してほしい。
 
プロフィール

蹴球四十雀

Author:蹴球四十雀
滋賀のサッカーJFLチーム「MIOびわこ滋賀」を心の底から応援しつつ、たまにフットサルで息を切らす。一方、書斎での濫読(純文ラノベ歴史ノンフィクション)や琵琶湖周辺の野山歩きもこたえられません!

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